ドチュ・ラ越え

平成18年11月11日

 2600mのブムタンを後にティンプーに向かう。ティンプーからブムタンへは経験済みであるが、ブムタンからティンプーは始めてだ。最初の峠はヨトン・ラである。標高3400m。ラとはブータン語で峠のこと、いうなればヨトン峠である。この時期、この峠一帯にはヤクが放牧されている。ヤクは3000mから4000mに生息し、冬場は3000m近くまで下りてくる。またこの一帯は石楠花の群生で有名でもある。ヤクを横目に下降し、2000mのトンサに着く。ここは3代国王の生れたところでもある。ブムタンは初代国王の生れたところで、当時、夏はブムタンで、冬はトンサで国政が行なわれた、いわゆる首都でもあった。現在は首都と空港がある西ブータンの比重が高くなっているが、トンサとブムタンはその伝統と権威を支える「王家の谷」なのである。

 マンデ川を迂回しながら次第に高度を上げていく。「キィ・キィ、キー」という叫びとともに猿の一群が横切っていく。日当たりのいい尾根伝いに段々畑が広がっている。日当たりの悪い谷底の川沿いよりもいいのであろう。ティンプーから来た時と同じ道を通っているのだが、方向が逆、時間帯も違うので全く別の風景を見ているようだ。まるで空中道路を走っているという感じだ。やがて3360mのペレ・ラだ。空港が1つ入りそうな広大な緩斜面が広がっている。ヤク牧場のようだ。この辺りは石楠花を中心とした疎林になっている。再び坂道を下っていくと、道路一面に竹が敷き詰められている。車がその竹を轢いていく。竹をなめしているのだ。なんと原始的というべきか、合理的というべきか。子供がその状況を観察し、囃し立てている。竹細工で有名なノブディンという村だそうだ。外気はかなり冷えているにもかかわらず、車内はじりじりするような日差しで肌が痛いほどだ。途中、峠の茶屋といった風情の一軒家で昼食を取る。決して愛想は良くない。腰の痛みに耐えかねての漸くの昼飯である。看板娘の笑顔のひとつも欲しいところであるが、何しろ峠の一軒家、独占企業である。サービスという言葉は通用しないようだ。栗の木、かえでと植生が変わっていく。紅葉もなかなかのものだ。しかし、紅はなく黄色ばっかりで日本の比ではない。先日訪れた九大の荒谷助教授の話によると、ブータンほど多様な植生の国はないそうだ。標高100mの熱帯から7000m級のヒマラヤまで。考えてみれば確かにそうだ。ましてや1日で夏から冬まで経験できるのである。

 やがて1400mのワンデュ・ポダン。西のティンプー、北のプナカ、南のチラン、東のトンサへ向かう道が交差する交通の要衝である。川の合流点に鋭く切り立った尾根の上にワンデュ・ポダン・ゾンの威容が見える。ゾンとは城のことである。川の反対側は綺麗な棚田が広がっている。水田の黄、川の青、土の赤、そしてゾンの白というコントラストはブータンの中でも特筆の景観であろう。ここは最早亜熱帯である。「ウィンディー」と呼びたくなるほど風の強いことでも有名だ。ポインセチアが咲いている。クリスマスが近いとはいえ、花屋ではなく野生である。再び棚田を右手に見ながら上昇する。ブナ林を抜けるとやがて標高3150mのドチュ・ラである。

 ドチュ・ラには2004年に建立されたチョルティン(仏塔)が108基ある。宗教的峠だ。観光客はこの仏塔を右回りに数回回るとご利益があるそうだ。なかなか立派なものである。宗教的意味だけでなく、ここからの景観は素晴らしい。遙か彼方にヒマラヤの峰々を見渡すことが出来る。しかしそれは心がけ次第のようだ。なかなかその峰々を見ることは出来ない。今回は幸運にも夕日に映えるヒマラヤを拝むことが出来た。観光客らしき一団が歓声を上げている。3つも峠を越えてきたのに、天城越えのような踊り子との出会いはなかった。しかしティンプーに下っていく九十九折りに、右に左にと満月に程近い14夜の月が冴え渡り、しばし伊豆の踊り子の世界にしたった。眼下にティンプーの街明かり。始めて来た時は山間の温泉町と思えたこの町が、片田舎ブムタンから来ると東京にも優る大都会に見えた。伊豆の温泉町であって欲しかった。

 ジャカール城(2400m)⇒ヨトン峠(3400m)⇒トンサ城(2000m)⇒ペレ峠(3360m)⇒ワンデュ・ポダン城(1400m)⇒ドチュ峠(3150m)⇒タシチョ城(2400m)へと3つの峠越え。さらに3つの検問所、3つの日本橋、昼食を含めての3回の休憩と三々九度、260キロ、9時間の移動であった。
注)タシチョ・ゾン(城)は国王の執務室であり、ブータン仏教(ドゥク派)の総本山である。

  

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