タシの里プナカ
 
平成19年12月2日

 霧氷のヨトン・ラ、石楠花のペレ・ラを越えてワンデゥ・ボタンを過ぎ、国道1号を右に折れるとそこはバナナが生い茂る亜熱帯の地、プナカである。虫の声、鳥の声にもブムタンとは違う南の気配がある。標高は1350m、ブムタンの半分だ。ゴムの木、ポインセチア、ブラシの木、それに南米の桜ジャカランダもある。アルゼンチンに植えてきた木だ。懐かしい。ポ・チュ(父川)とモ・チュ(母川)の合流点にプナカ・ゾンが聳え立っている。季節によって低地と高地を住み分けるライフスタイルを民俗学的にはトランス・ヒューマンと呼ぶそうだ。1955年ティンプーが通年首都になるまでの300年余りの間、プナカは冬の首都であった。第1回の国会もここで開催され、初代国王の戴冠式もここで行なわれた。現在でも、宗教界の最高権威ジェ・ケンボを初めとするティンプーのタシチョ・ゾンの僧侶たちは冬の6ヶ月間をこのプナカ・ゾンで生活している。ポ・チュを北に上ると日本人に良く知られたトレッキングと温泉で有名なガサである。川から山沿いに棚田が広がっている。鉄分の多い赤土だ。歩くと汗が出る。冬とはいえ夏雲がかかっている。

    

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 タシの実家はそこから山を崩しただけの道路を登っていく。途中で道はなくなる。そこからは山道をさらに30分ほど登るとタシの家だ。みかん、ギャバの実がたわわに実っている。段々畑、棚田それに5頭の牛に1頭の馬。自給生活には申し分なさそうだ。タシ兄弟の到来を待って、40人ほどの一族郎党が待ちうけていた。泊まりきれずに回りにはテントも張られている。遠来の客として奥座敷に通される。仏壇の間では「ボーボー」とお経が上げられている。道路も電気も今年になって通じたそうだ。山深い1軒屋だ。タシは子供のころ、この山道を2時間かけて学校に通った。「夏は熊や野豚が出て、とても怖かった。命がけだった」という。休みには、牛を山の頂上まで連れて行くのが仕事だったそうだ。その山道を一緒に登ってみた。野性のランが群生していた。将来はこの斜面に柿を植えたいと言っていた。ランの栽培のほうが良さそうに思うが、まだ需要がなさそうだ。

 タシは7人兄弟である。タシが4歳の時母が亡くなり、14歳の時に父が亡くなったそうだ。家は姉2人が守り、兄や親戚の支援を受けながら学校に通ったという。「とても貧しかった」と漏らす。しかし頭脳明晰なタシは、国や親族の支援を受けながらメルボルン大学を卒業し、博士号を取得した。青雲の志を抱き、国づくりと農業の発展にその生涯を捧げることを誓い、農業省に入り、37歳の若さで四県を所管するリサーチ・センターの所長となったのである。彼の長男は今、サルパン県の知事であり、次兄はダショー西岡の薫陶を受けた農業機械化センターの所長である。「タシはまだ若いし、仕事のことや人生のこと、色々教えてやって欲しい」と言う次兄の言葉に胸が詰まった。無学で家を守り兄弟を支えてきた姉2人、そして親族へ、その恩に報いるため今も支援を続けている。安寿と厨子王のようだ。深い兄弟愛、郷土愛に包まれた話である。

 夜9時、日本は新年を迎えているなと、時計を見ながら床に就く。とはいっても持参した寝袋である。12時、「ハッピー・ニュー・イアー」といって起こされる。一同が集まりワインで乾杯。その後延々と新年を祝う踊りが続く。外は霧雨。その静かな調べが村に木霊し、森の木々に吸い込まれ、山の頂に駆け上っていった。農村の朝は何処も同じ。共同の炊事場で歯と顔、ついでに頭も洗う。トイレは外、思うように出ない。山に向かってしたほうが快適だ。ダニか南京虫の攻撃を受けたようだ。背中のあたりがむず痒い。長兄の知事は年始の国王の御前会議に出席のため既に出かけていた。朝食に玉子焼きが出される。私だけに。食べあぐんでいると、タシが「フォー・ユー」と勧めるので子供の目を気にしながら頂く。美味しかった。豊かでなかった子供のころをふと思い出した。

 タシとタシが通った山道を2人下りていった。山の頂には農業大臣、4人の王妃の生家が見える。反対側の中腹にはブムタン知事夫人の妹の生家も見える。川に向かって棚田が広がっている。大いなる農村である。麓にはプナカの町を望む絶景だ。タシの子供のころを思い描きながら歩いた。多分鼻を垂らして、裸足で学校に通ったのであろう。
 異常な、しかし貴重な年末年始のエクルペリエンスであった。途中、白猿の集団に出会う。幸運の猿だ。今年は好いことがありそうだ。霧と雪の峠を越えて、真冬のブムタンに戻った。

  



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