国王の友人ドルジ

平成19年6月1日

 トンサからペレ・ラに向かう途中、車が転落している。大勢の人がロープで引き上げている。しばし交通遮断。谷間の途中まで落ちている。昨夜、運転手の居眠りで転落したとのこと。トンサの裁判官の公用車だ。幸運にも崖の途中で、事なきを得たようだ。しかし、車の前面と後部はペチャンコである。ロープと人の力では無理だろう。道端でドルジの娘が作った昼食をとることにした。

 ドルジは、例の日本語ぺらぺらのマッシュル−ム先生である。子供が4人。ジャカールで一緒に住む娘はインドの大学を出て、今ジャカール・ゾンに勤めている。ドルジに似ず、なかなかの美人だ。姉はスウェーデンに留学中、弟はインドに留学中だ。末弟はティンプーで母親と同居で、これまたインドに留学が決まっている。なかなかの教育一家だ。しかしブータンでは珍しく単身赴任である。

 ブルドーザーが来て、やっと引き上げに成功。交通遮断解除だ。

 夕暮れ、ティンプーに到着。JICAゲストハウスとも言われているイージン・ゲストハウスに宿を取ることにする。


 

 朝食は何時ものコンチネンタル。今回はスクランブルをやめ、ボイルド・エッグにした。トーストが3枚、何時もより1枚少ない。しかし、何時もながら美味しいオレンジジュースだ。ひげ面の米国系青年がやってくる。しきりに左手でメモを取っている。まつ毛の長い女性的な北欧系青年がやってくる。英字紙を読んでいる。背の高い女性がやってくる。「ヤーヤー」とドイツ語的発音。2人の青年とは知り合いのようだ。北欧系の青年の席に着く。ブータンにいることを忘れる朝食風景だ。

 ドルジとパロに向かう。2008年の国王就任式のため、道路工事が進められている。すごい土埃だ。チョゾムに立つ3つのチョルティンを右手に見ながらパロへと車を進める。相変わらずひどい道だ。空港を過ぎ、パロの町並みを通り過ぎるとやがて、ブータン最高の聖地タクツァンが右手奥に見える。パドマサンババ(グル・リンボチェ)が8世紀始めに虎の背に乗ってやってきたとのことから、「虎のねぐら」という意味でこの聖地をタクツァンと呼ぶそうだ。500mほど垂直に切り立った屏風のような岸壁に張り付いたこの寺院は、まるで空中に浮いているようでもある。


 

 さらに北西に進むとやがて自動車道路はドゥゲ・ゾンで行き止まりとなる。ブータンがチベットに勝利したという意味を持つこのゾンは、チベットとの戦いの砦でもあった。しかし残念なことに、1951年に火災によって焼け落ち、今は廃墟になっている。「つわものどもが夢の跡」、中庭に大きな柿の木があった。栄華を偲び、昔のことを語りかけているようだ。歴史的価値のあるこの荒城を、放って置くには忍びない。ドゥゲ・ゾンから遠く、雪に覆われた7314mのヒマラヤの霊峰チョモラリが望める。絶景の地である。


 

 帰りがけ、ドルジがウゲン・ワンチュ・アカデミーを案内してくれた。ウゲン・ワンテュは初代国王の名だ。1969年から74年までの6年間、現国王を教育するために建てられた学校である。校長はイギリス人。オックスフォードの教育方針で、しかもオックスフォードのカリキュラムで教育されたそうだ。全国から俊秀25人が選ばれ、国王と寝食を共にし、6年間の教育を受けたとのことだ。その1人がドルジである。広大な敷地に、寄宿舎と校舎が建っている。国王との6年間の思い出を語ってくれた。互いに「ジグメ、ドルジ」と呼び合える仲のようだ。しかし、そのような素振りを見せたことがない。この学校は6年間の教育だけで、その後1度も使われずに、松林の中に静かに佇んでいた。

 ティンプーへの帰り道、ドルジが山に入り、山椒の実を取ってくる。油で揚げると美味しいとのことだ。2ヶ所ほどで取るが、足りないと見えて売店ごとに聞いてみるが山椒の実はない。妙なものが好きだ。

 ティンプーの夜を散策する。日本人がよく利用する日本料理店センター・ポイントに行ってみた。JOCVのパーティーで満席。焼鳥屋があるというので行ってみる。日本料理のちょうちんが下がっている。肉なしデーとかで焼き鳥はない。しかもノン・アルコールデーで酒もない。何のために店を開けているのか解らない。やむなく中華風もどきの店に入る。全く美味しくない。ドルジに「何か面白いことはないのかよ」と言うと、「ホテルに行こう」という。そこで「女を紹介しろ」と言い出す。ボーイは困り果てている。私の泊まっているホテルだ。慌てて口を封じる。それにしても、驚いた国王のご学友である。怖いもの知らずで、八方破れで、なんとも愉快な奴だ。