肝臓癌

平成19年7月5日

 森林部長のチェトリが2ヶ月経っても出勤してこない。奥さんが肝臓癌のようだ。余命幾ばくもないとの噂だ。

 チェトリはネパール系で、インド的な顔をしている。昔のトヨタ・クラウンに似たインド製の黒塗りの車に乗っている。かなりの年季もので、ブータンには1台しかないと自慢している。しかし、もはや山道は苦手のようだ。ブータン向きの車ではない。

 私の部屋の斜め向かいで、日本語ドルジの隣がチェトリの部屋だ。朝出勤すると必ず挨拶に来る。彼の英語は訛りが強く、なかなか理解しにくい。携帯電話のカメラで女の写真を取っては、髪の毛を金髪に変えたりして喜んでいる。ある時、ボカリ用の薪の中にねずみが住み着いたと言って、大騒ぎをしたことがある。何しろ殺生を好まない国だ。ねずみ捕りで捕獲しても、裏山に逃がす始末だ。

 一度、チェトリ宅に招待を受けたことがある。部屋の中は綺麗に整理され、鉢植えなども置いてある。奥さんはインド系でカルカッタの出身と聞いた。ブータンの女性とは一味違い、がらっぱちで控えめなところがない。しかしあっけらかんとして、爽やかな感じでもある。ヒンズー教の信者だ。祈りの部屋が一室設けられている。そこは、もはやブータンとは違う世界だ。煌びやかな、ふくよかな胸をした女性の像が飾られている。やはり彼らはブータンでは少数民族なのだ。

 

 ヒンズー教はインド国民の大多数が信奉する宗教であるが、ネパールなど他の南アジア諸国にも信者がいる。バラモン教を前身とし、各地の土着信仰を取り入れ、4世紀ごろ確立されたという。呪物崇拝、アニミズム、祖先崇拝、偶像崇拝、汎神論などの要素を含んでいるといわれている。


 


 

 チェトリには娘と息子がいる。娘は、色は黒いが、目鼻立ちはハッキリしてなかなかの美人だ。4ヶ月の身重だそうだ。

 ちゃきちゃき奥さんは、最初カルカッタの病院に検査入院したが、もはや手遅れとのことでティンプーの病院に戻された。ティンプー出張の折、輸入品店からジュースとスープを買って見舞いに行った。殺生を嫌う国、切花は持っていけない。もはや、身動きできず、食事もとれず、目すら開くことが出来ない。点滴に抗がん剤を入れての対応のみだ。家族全員、その病室に寝泊りしての介護である。チェトリは「もう手の施しようがない。死を待つだけだ」と明るく振舞うが、目は憂いに満ちていた。この病棟は余命幾ばくも無い患者で溢れている。

 ブータンの病院は、ほとんどがインドの支援によって運営されている。医師もインド人が多いが、インドで医学を学んだものがほとんどだ。しかし医療機器は古く、感と薬に頼ったもので、医療の質は高いとは決していえない。危なくて、とても病気になれない国である。

 喫茶室で紅茶をご馳走になる。喫茶室というよりは露天で、夏の日差しがきつい。話が思うように弾まない。長期の休暇で、仕事のことを気にかけているようだ。確かに、2ヶ月に及ぶ休暇は日本では考えられない。しかしブータンではそれが許される。死生観の違いであろうか。

 静まり返ったチェトリの部屋に、またねずみが住み着いているのではないかと気になった。