成田からキトへ


 出発の朝、家族は雑煮を振舞ってくれた。粘り強く頑張るようにとの思いを込めてのようだ。昨日は、昼は寿司、夜はすき焼きで、日本に思いを残さないための配慮であった。ちょっともたれ気味ではあったが、家族写真を撮り、95歳の父のいる実家に電話で別れを告げた。いつも別れはつらいものだ。妻は必要以上に明るく振舞っていた。

 成田へは1人で向かった。JICAの団体旅行のようだ。チェックに厳しいアメリカ経由のためスーツケースに鍵はせずに、はずれないようにしっかりテープで留めて出す。危険物は持ち合わせていないが、ちょっと心配は残るものの壊されるよりはましだ。

 15時55分、コンチネンタル航空で日本を後にする。ヒューストンまで11時間の長旅だ。黒人が隣の席にいたが、その隣の白人が何か言うと席を立ち、以後帰ることはなかった。隣が空いたのでエコノミーとはいえ、少し楽になった。ラッキーである。米国軍人が多そうな雰囲気だ。席を立ったのは、上官の命令だったのかもしれない。スチュアーデスは南部系の大柄なテキサス美人だ。なかなか愛想がいいが、日系スチュアーデスはちょっと愛想がない。新聞を読む。ビールを注文する。早速食事だ。あごが3日も痛くなりそうな、かなり硬いビーフだ。アングロサクソンのまずい食事の洗礼を受ける。日系スチュアーデスが英語で聞いてくるが、ヒューストンまでは日本語で通すことにした。

  

最早外は暗黒の闇だ。ゴーゴーという飛行機音だけ。目を閉じると昨夜テレビで見た「男たちの大和」が脳裏をかすめる。以前映画でも見たことがある。沈むために南洋に向かった戦艦大和、死ぬために戦った兵士。日本も家族も愛する人も守れなかった。負けることで生き返る。死ぬことで生まれる。彼らの戦いは決して無駄ではなかった。これが日本人の美学だ。欧米人には決して理解できない美学である。しかし我々と同じ血を持つエクアドルのインディオには理解できるかもしれない。そんなことをうつらうつらと考えていた。

 日本時間で午後11時30分、アメリカ西海岸に朝日が昇る。出発と同じ22日の始まりである。アサヒビールで乾杯。入国カードと税関申告書を用意し、日本時間23日午前3時45分(現地時間22日午後1時45分)テキサス州ヒューストンに到着する。入国審査に手間取る。乗り換えまで4時間待ちだ。疲労困憊、頭が朦朧としている。思考能力ゼロである。お茶を飲む気すらしない。待合室でうたた寝する。ヒスパニック系が多くなる。最早スペイン語が通用語だ。金持ちそうには見えないが、小柄で太った陽気な庶民だ。

 日本時間午前7時45分(現地時間午後5時45分)、再びコンチネンタル航空でキトに向かう。隣の席にインディオ系の親子が乗ってくる。日本語を話している。一瞬耳を疑った。やはり日本語を話している。聞くと、奥さんが日本人で、ニューヨークで結婚し、その子は日本で育ち、父親も2年間日本で過ごし、エクアドルへ初めて里帰りするのだという。その子はスペイン語を全く話せない。4〜5歳の感じだ。絵本を見たり、プラモデルで遊んだりしている。名前はカイト(海渡)。私になついてとても可愛い。父親はクエンカで小学校の教師をしているという。クエンカは語学研修で1ヶ月滞在するところだ。電話番号を聞き、私のメールアドレスを教える。またしても出会いの不思議を感じた。

  

 日本時間23日午後1時20分(現地時間22日午後11時20分)エクアドル・キト空港に到着。時差14時間。JICA職員および青年ボランティアに迎えられる。赤道直下とはいえ、3000m近い標高だ。肌寒い。宿舎で寝たのは午前2時だった。時差と疲れと興奮でなかなか寝付けない。うとうととまどろんだだけで、朦朧と思考停止状態のままエクアドルの第1日目が始まった。

  


平成20年9月22日
須郷隆雄



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