エクアドル便り106号
マンタの一本釣り
「土佐の一本釣り」という青柳裕介の漫画があったが、グアヤキル、ポルトビエホを経由して太平洋岸の漁港マンタに向かった。
相変わらずの曇天だ。グアヤキルで乗り換え、マナビ県の県都ポルトビエホへと向かう。度々襲撃に会う危険な路線だ。コマンドのような服装の車掌が乗り込んできた。右手に長閑な水田が広がる。左手にゴルフ場、アップダウンのない河川敷のようなゴルフ場だ。エクアドルで始めてお目にかかる。道端でハンモックを売る店が多い。熱い。強い日差しだ。青い空に白い雲。聞こえるのはエンジン音と風を切る音だけだ。葉を落したボラーチョの木が荒涼とした丘陵にバオバブの林のように連なっている。異様な光景だ。
ボラーチョとは酔っ払いのことだ。徳利のような幹をしているのでその名が付いたのかと思っていたが、無節操な枝振りが、酔っ払いが手を上げて歩いているように見えるところからの命名のようだ。乾季になると葉を落すが、春になるとピンク、黄色、白などのラッパ状の花をつける。アルゼンチンの日系人大城さんが描いてくれた「ボラーチョの木」が我が家の応接室に飾られている。
酔っ払いがボラーチョの木に抱きついて、酔いを醒ましていた。それを見た女の子が、「酔っ払いが酔っ払いの木に抱きついている」とバカにした。男は「俺は朝になれば元に戻るが、お前の顔は一生直らない。どっちが可愛そうか解っているのか」というジョークがある。
マンタ漁港 軍艦鳥とペリカンと共に水揚げ
ポルトビエホを過ぎると、再び厚い雲に覆われてきた。漁港の香りのするマンタに到着する。リオバンバから9時間、664kmの旅路だった。人口22万人、県都ポルトビエホに優るエクアドルを代表する漁港だ。
マンタは、古くは「ホッカイ」と呼ばれ、プレインカ時代の独特な文化を持つ先住民が住んでいた。19世紀になると、パナマ帽(エクアドル産のパハ・トキージャ帽のこと)やタグアヤシ(象牙ヤシ)、カカオが盛んに輸出された。1950年頃からコーヒーの積出港として栄え、1980年代になるとマグロやカツオ、エビなど水産業が盛んになる。世界最大級のマグロとカツオの水揚げ港で、東太平洋海域で水揚げされたマグロやカツオの三分の一を占める。また年間200隻を越える貨物船が入港し、60万トンの貨物が入出庫される。特に多い貨物は日本、ブラジル、メキシコからの自動車だ。
マンタの名を世界的に知らしめたのは米軍基地の存在であろう。1999年末にパナマ運河を返還したアメリカが、運河地帯にあった基地の一部をコロンビア革命軍掃討と麻薬撲滅を口実にマンタに移したからだ。エクアドル政府は第2次世界大戦中の1942年、日本軍のパナマ運河攻撃を想定し、ガラパゴスのバルトラ島に米空軍基地の建設と使用を認めたことがある。しかし現大統領コレアは新憲法の制定と共に、昨年(2009年)9月をもって米軍基地の撤退を締結し、今や米軍基地は存在しない。
海岸に人だかりだ。軍艦鳥が群舞している。盛んに海面にダイビングしている。マグロとサメの水揚げだ。おこぼれに与ろうとペリカンまでがたむろしている。大きなマグロだ。大人の体ほどある。さすがにマグロは貴重品だ。大事に扱われている。それに引き換え、大人の2倍ほどあるサメは無造作に砂浜に投げられていた。それにしても小さな船だ。こんな小さな船でマグロやサメを釣り上げるとは大変な技だ。間違えればサメに船ごと噛み砕かれてしまいそうだ。海の男は逞しい。「土佐の一本釣り」は純平と八千代の若い2人を軸に、一本釣りの場面と猟師町久礼の人々の生活が骨太に描かれている。「マンタの一本釣り」にも同様の生活があるのだろう。
バナナボートに乗ろうと再び浜辺に出てみた。バナナボートは見当たらなかったが、観光用のボートが客もなく退屈していた。「客を集めろ」と催促し、家族連れと共に湾内を一周する。腹を出した船が放置されていた。海水は透き通るほど綺麗だ。ゆっくりと進む。遠洋、近海の漁船ばかりだ。パナマ船籍が目に付く。はしけに沢山の魚が群れていた。ゆったりと1時間ほどの周回を楽しんだ。しかし雲は厚く垂れ込めていた。
海の家でパエジャもどきとビールで昼食を取る。伊勢エビがド〜ンと載ってきたのには感激した。出来たらマグロの刺身を山葵醤油で食べてみたかった。物売りが盛んにやってくる。2本のビールで完全にボラーチョになってしまった。体力の衰えか、年のせいか、酒には弱くなった。
翌朝の海は満潮だった。ゆっくり散歩すりもの、ジョギングをするもの、早くも波に戯れる子供たち、マンタの朝は次第に活気を取り戻し始めていた。相変わらずペリカンがダイビングを続けている。餌を漁るというよりはダイビングを楽しんでいるようだった。
平成22年8月15日
須郷隆雄