エクアドル便り110号
秀峰コトパクシ
首都キトの南に円錐形の天女のような秀峰コトパクシがある。標高5897mだ。「エクアドルの富士山」とも言われる。チンボラソ山に次いで2番目に高い山だ。キチュア語では「光る巨大なもの」を意味する。キトへの行き帰りに「アンデスの廊下」と言われるパンアメリカ道から何度も眺めたが、なかなかその秀麗な頂を見せることはなかった。キトからクエンカに向かう飛行機から、天女のような姿を1度だけ見たことがある。しかし、行ってみようと思いつつ、その機会に恵まれなかった。帰国前日になって、その機会を若石怪人こと鎌倉さんが与えてくれた。
その前夜、鎌倉さんと教え子のメルセデス、マルガリータ、それにパウルがホテルに迎えに来た。最高のエクアドル料理を招待するとのことであった。メルセデスは60歳、資産家の淑女。マルガリータはボリビアから日本のNPOを通じ鎌倉さんを頼って来た、小児麻痺で足が不自由な35歳の女性。パウルは配属先の大学の図書館で知り合ったという、未だ職のないニートだ。共に趣味で教えるマッサージやヒーリングの生徒である。
秀峰コトパクシ リンピオプンガ湖とルミニャウィ山
翌朝7時半に、メルセデスがホテルに迎えに来た。鎌倉宅で待ち合わせ、パウルの予約した車で前夜の仲間たちとコトパクシに向かう。花曇りといった感じだが、コトパクシが頂上を見せている。「アンデスの廊下」から砂利道に入り16km、コトパクシ国立公園の入り口だ。1人2ドルの入園料を払い、更に35km裾野の砂利道を走る。コトパクシが天女のような雄姿で迎えてくれた。向かいに、のこぎりの歯のような真っ黒な悪魔を思わせるルミニャウィ山が聳えている。管理事務所に到着する。コンドルのはく製のある小さな博物館もあった。暫し悠然とコトパクシと向かい合う。標高は既に3600mだ。草千里を走る。馬が草を食んでいる。次第に風が強くなる。砂塵が舞う。アルパカは木陰に退避しているのか、1頭も見当たらない。雲が激しく流れる。道沿いに雪がへばり付いている。登山口駐車場に到着した。
標高4500m、風速30m。標高4800mの黄色い非難小屋まで向かう。風圧で足が進まない。呼吸も困難だ。3歩登っては休み、5歩登っては立ち止まる。砂塵が顔を打つ。山頂は激しく雲が舞い、刻々と様相を変えていく。天女ご乱心である。最早お手上げだ。砂利道を滑り降り、天女コトパクシに腰を下ろし、向かいの魔界ルミニャウィを遠望する。九十九折りの山道を下り、麓のリンピオプンガ湖に向かった。
ルミニャウィを背景に、沼のような静かな佇まいの湖だ。標高は3830m、まだ富士山より高い。家族連れが2匹の犬と戯れていた。「山の寂しい湖に〜♪」と高峰三枝子の「湖畔の宿」が聞こえてきそうだが、周りには一本の木も見当たらず、荒涼とした原野が広がるばかりだ。車に乗り込み帰路に就く。
途中、「カフェ・デ・バカ」で遅い昼食を取る。名前の通り牧場が経営する洒落たレストランだ。ステーキとワインを注文する。車の女性運転手に年を聞かれた。「64歳」と正直に言うと「メンティーラ(嘘)」と信用しない。「50歳にしか見えない」と嬉しい反応だ。年相応が一番と口にはしているものの、若く見られて悪い気はしない。
鎌倉さんの荷物を纏め仲間と別れようとするが、ホテルまで来ると言う。別れが辛いようだ。「十分な活動は何も出来なかった。シニア海外ボランティアだったことを生涯隠して生きていかねばならない」と謙遜していたが、とんでもない。教え子は50人を越え、講師料治療代を含め、日本円に換算すると1000万円を下らない奉仕だったという。本来の指導科目とは違うが、ヒーリングやマッサージを通じて、これほど信頼と尊敬の念をエクアドルに残したボランティアがいただろうか。彼らの心の中に日本への感謝の想いが生き続けるであろう。まさにこれこそがボランティアである。風の又三郎のように言葉少なく、感情表現は苦手というが、拍手喝采を送りたい。
明朝3時半に出発である。ホテルで誘いを断り、意を決して別れた。秀峰コトパクシのような爽やかな気分を味わった。
平成22年9月18日 須郷隆雄