エクアドル便り15号
スーラ
リオバンバから車で3時間ほどのところにスーラはある。チンボラソ県の最南端アラウシ郡ティクサンにあるインディオのコミュニティーだ。そこにスレーニョという小さな乳業会社がある。時々訪問する。
「アンデスの廊下」を南へと走る。「パン・アメリカ」と言われるだけあって、エクアドルでは最高の道路だ。湖と南米一古い教会として有名なコルタを過ぎ、木曜市で知られるグアモテを過ぎると次第に荒涼とした風景が目に飛び込んでくる。
火山灰土とやせた土地、更に水が不足し灌漑も行き届いていないことから、一時は砂漠化の危険さえあったと聞く。しかし植林が進み、斑ではあるが松林やユーカリ林を望むことが出来る。松とユーカリは乾燥に強いそうだ。木も生えそうもないところには、インディオの草葺屋根に使われるという「パハ」が枯れたような色で「滅び行く草原」と言った感じで生えている。しかし小川があり、湿潤な地域は山の頂上まで良く耕され、「到天耕地」といった風でもある。アンデス山中にこのような丘陵地が広がっていることにも不思議な感じがする。龍舌蘭が道端といわず、畑の畦など至る所に生えている。これ以上実をつけられないというほど実をつけ、生涯を終えようとしているその姿には、哀れと生きるとは何かを教えられる。
やがて砂利道に入り、腸捻転を起こしそうな道を進むとインディオの集落が谷間に、そして山腹に散見される。牛やロバ、豚、鶏に羊との共同生活だ。畑は人手や牛で耕している。赤や緑、青など煌びやかなポシェーラを履いて楽しげに耕し、収穫している。昔の日本もこうであったのだろうと思いつつも、傾斜のきつい畑を耕すのは並大抵のことではなさそうだ。
顔は皆良く似ている。近親結婚のせいでもあろう。やや面長で、鼻は高いというよりは大きく、色は黒いが目は二重でパッチリ。日本人に似ているようでもあるが、やはり違う。一様にシャイで、ラテンの図々しさと陽気さは無い。食事はてんこ盛りで勧め、お茶などもなみなみと溢れんばかりに注いでくれる。そして我々とは一緒に食事をしない。どこか終戦後の日本の農村の習慣に似ているような気もする。「ここは開発から取り残された村だ。とても貧しい。皆さんの支援と協力が必要だ」と懇願する。しかし彼らは最後に「我々も最大の協力を惜しまない」と付け加える。何とも日本的な考え方ではなかろうか。
帰りに草原で羊の群れを移動している子供たちにあった。カメラを向けると逃げ回っていたが、興味を示すと人懐っこく付きまとう。子供は何処の国でも純真で可愛い。
インディオの農作業
パンク
再びスーラに向かった。腸捻転の砂利道を進むと、道路が寸断とのこと。やむなく引き返す。湿潤な地域と乾燥した地域により、植生も風景も変わる。入道雲が赤道直下の日差しを浴び、拳を上げている。しかし、4000m近い高地のため、肌寒さを感じる。グランド・キャニオンよりは小振りのサボテンが赤い花をつけている。
リオバンバを経由してリクトのツンシに入る。広々とした農業地帯だ。あちこちにビニールハウスが見える。トマト栽培のようだ。灌漑も行き届いていて、色々な野菜が栽培されている。スーラとは違って、豊かな農村であろうと想像する。
突然、カルロスが路地に入って車を止める。何とパンクだ。カルロスは車の下に潜り込み、手を真っ黒にして修理している。それをルイスが手助けをする。シャツを脱いだカルロスの体は若いとは言え、なかなか逞しい。今時の日本には見かけない体付きだ。その間私は手伝うでもなく、風景に見とれ写真を撮ったり、ビニールハウスのトマトを覗きに行ったり、村の悪餓鬼どもと話したり、何とも勝手なものだ。近くにあるパキータというチーズ工場の中を、ガラスの割れ目越しに覗いたりもしていた。
ようやくパンクが直る。何事も自分でやるという習慣が身に付いているのか、労をいとわない。なかなか爽やかだ。「タカオ、バモス」と車に乗り込む。今度はエンジンがかからない。またボンネットを開け、確認。ようやく出発となる。最早3時。私が「スーラに行こう」と言うと、「もう到着できない」と引き返すことになった。時々このような事態も起こる。しかし、日頃いい加減と思っている彼等を見直す機会でもある。
平成20年12月20日
須郷隆雄