エクアドル便り27号

葬儀との遭遇

 

 組合総会の資料説明のためチンボラソ県最南部のアラウシ郡ティクサンを経てアチュパジャスのスーラに向かった。

 パラモの草原に下から雲がわいてくる。風が冷たい。標高は4000m近くあろうか。抜けるような空の青、白い雲。しかし道はでこぼこと砂利道だ。インディオの部落を通過していく。スーラの家族はチーズ工場の仕事を終え、ジャガイモ畑の手入れだ。体が冷える。エクアドル焼酎シュミールを回し飲みしながら話す。下からわいてくる雲がジャガイモ畑を覆い、やがて村全体を覆っていく。しばれる寒さだ。学校帰りの子供たちが雪国の子のように毛糸の帽子を深々と被って通り過ぎて行く。

 帰りがけチンボラソ山の麓の町、サン・ファンに寄る。街道沿いの小さな町だ。楽団付きの葬儀の行列が道路を横切り墓地に向かっていた。大変な数の参列者だ。町の名士なのだろうか。墓地まで行ってみた。臨時の売店まで出ている。墓地は見送る人で一杯だ。葬儀委員長なのか、親族の代表なのか、とくとくと話している。墓地の外ではアヒルの集団が何事かといった顔をして、「グェ、グェ」とたむろしていた。黄色と橙をした土筆の親分のような花が道沿いに咲いている。まるで彼岸花のように。

 

              エクアドルの葬式

 

           彼岸花のように

 エクアドルでは殆どが土葬だそうだ。火葬はまれだとのこと。エクアドルアマゾン上流の一夫多妻、狩猟漁猟を生活の糧とするヒバロ族には、首狩りの風習があった。人間の頭部には霊的な力が宿るとの信仰があり、その力を自分のものとし、操作しようとする呪術的、宗教的行為として生まれたとされている。インドやフィリピン、ボルネオなど東南アジアに多いこの首狩りの風習が、何故アマゾン上流のエクアドルにあったのかは謎である。キリスト教の世界では火葬が主流のようだ。「人間は死後肉体から解放され、精神の世界に昇天する」と信じられ、遺灰に対する感情は無い。イスラム教は土葬のようだ。遺体の頭は必ずメッカの方向に向けられる。「死は人生の最終点ではなく、愛する人との一時の別離に過ぎず、審判の日に再び蘇る」と信じられている。遺体は単なる亡骸と考えられている。ヒンズー教では、野火で火葬し、遺灰はガンジス川に流す。「死は輪廻転生の一過程で、生は永遠に繰り返す」と信じられ、墓地は一切ない。仏教の世界では、一般に火葬が行われている。「死後は肉体以外の何者かがその世界に移行する」と信じられ、遺灰を保存している。

死後の世界は、まだ遭遇したことがないのでよく解らない。しかし、「信じるものは救われる」と言うことであろう。

 翌日、組合総会が行われた。任期満了のホセに変わり、グアモテ選出の若きビクトルが選任された。任期は2年、報酬はなしだ。

 

平成21年2月12日

須郷隆雄