エクアドル便り30号
マリソルの涙
事務所を引っ越す日が来た。事務所の体をなしていないと文句を言っていたが住めば都、引っ越すとなると寂しいものだ。
「事務所が引っ越すらしい」と向かいの店のマリソルに話すと、「寂しくなるね」とそれ以来何となく元気がない。マリソルは、私が着任早々何度も炎天下で待っているのを見かねて、店の中に招きイスを出してくれた子だ。親子ほどの年の差はあるが、それ以来最も信頼できる話し相手になった。
事務所に入る前に必ずマリソルの店に立ち寄り、暫く雑談してから出勤に及ぶ。今では仲間から「タカオの恋人か」とからかわれている。心優しき娘のような存在だ。彼女は家庭のこと、自分のことを良く話してくれる。家族も時々その店に来るので、顔は大体覚えている。
家族は7人。母親に27歳の兄、21歳の妹とその子、16歳と8歳の弟とマリソルだ。マリソルは23歳、青春真っ只中だがどこか落ち着いて大人びている。妹は21歳にして4歳の子がいる。ご主人は34歳でスペインに出稼ぎに行っていたが、先日帰ってきた。母親は離婚し、父親はキト近辺の町で再婚し4人の子供がいるとのことだ。「父親には会いに行かないのか」と聞くと、「父親は嫌いだ。あまりいい記憶がない」と寂しげな顔をする。今はマリソルが父親代わりというべきか、母親代わりというべきか、兄弟の面倒を見ながら母親を助けている。
マリソルは両手に指輪をしている。始めて会った時、「結婚しているのか」と聞くと「ソルテーラだ」と言う。「じゃあ、ノビオがいるのか」と聞くと「そんなものもいない」と言う。「じゃあ、その指輪は魔除けか」と言うと「好きだからしているだけ」とのことだった。しかし、実は好きな人がいるようだ。今はスペインに行っていて、音信が全くない。「もうスペインでいい人が出来たのかも」と天上を仰いで寂しげに言う。
マリソルはエクアドル人にしては珍しく丸顔だ。色も浅黒い。しかし名前の通り、太陽のように明るく優しい子だ。日本から持ってきたお土産をあげると、たいしたものでもないのに「エルモッソ、エルモッソ」と大喜びする。昼食やコーヒーをご馳走しても、必ず何らかのお返しをする。日本人以上に礼儀正しく義理堅い。
引越しの日、「マリソル」と声をかけただけで大粒の涙が溢れ、最早言葉にならない。エクアドルの女性の涙を見たのはこれが2度目だが、涙もろいのか激しやすいのか、意外な側面を見た思いだった。「近くなんだから、また来るよ」と素っ気なく言って、振り向きもせずに別れた。
「好いていながら冷たい素振り、これがやくざの恋という」という言葉を聴いたことがあるが、このような場面ではどうすればいいのか解らない。何とも不甲斐ない別れとなった。
平成21年3月3日