エクアドル便り30号

マリソルの涙

 

 事務所を引っ越す日が来た。事務所の体をなしていないと文句を言っていたが住めば都、引っ越すとなると寂しいものだ。

 新しい事務所は町の南外れ、マジョリスタ市場の中にある。この市場はやっちゃ場のような青物市場で、とにかく広い。野菜の種類毎に12のターミナルがある。残念ながら乳製品は僅かだ。今までの事務所はマンションの1階で、展示販売には不向きであったというのが引っ越す表向きの理由だ。しかしこの組合の懐具合からすると家賃の180ドルは高く、郊外の事務所は80ドルで済むというのが本音のようだ。確かに、市場の中なので展示販売には多少向いているのかもしれない。しかし事務所は更に狭く、うるさい。それにエクアドル人の大好きな、しかし私の大嫌いなシランドロの臭いがする。シランドロとはポルトガル語でコエンドロ、せり科の一年草で南ヨーロッパ原産の薬用植物だ。健胃・去痰薬、香草として色々な料理に使われている。注文する時、これを入れないように言っているが、苦手な香菜だ。コリアンダー、漢名はコスイとも言うそうだ。これからはシランドロの香りのする事務所へバスで通わねばならない。彼等の決めたことだ。文句を言っても始まらない。

  

             マリソルと弟オマール                 無名の花

 「事務所が引っ越すらしい」と向かいの店のマリソルに話すと、「寂しくなるね」とそれ以来何となく元気がない。マリソルは、私が着任早々何度も炎天下で待っているのを見かねて、店の中に招きイスを出してくれた子だ。親子ほどの年の差はあるが、それ以来最も信頼できる話し相手になった。

 事務所に入る前に必ずマリソルの店に立ち寄り、暫く雑談してから出勤に及ぶ。今では仲間から「タカオの恋人か」とからかわれている。心優しき娘のような存在だ。彼女は家庭のこと、自分のことを良く話してくれる。家族も時々その店に来るので、顔は大体覚えている。

 家族は7人。母親に27歳の兄、21歳の妹とその子、16歳と8歳の弟とマリソルだ。マリソルは23歳、青春真っ只中だがどこか落ち着いて大人びている。妹は21歳にして4歳の子がいる。ご主人は34歳でスペインに出稼ぎに行っていたが、先日帰ってきた。母親は離婚し、父親はキト近辺の町で再婚し4人の子供がいるとのことだ。「父親には会いに行かないのか」と聞くと、「父親は嫌いだ。あまりいい記憶がない」と寂しげな顔をする。今はマリソルが父親代わりというべきか、母親代わりというべきか、兄弟の面倒を見ながら母親を助けている。

 マリソルは両手に指輪をしている。始めて会った時、「結婚しているのか」と聞くと「ソルテーラだ」と言う。「じゃあ、ノビオがいるのか」と聞くと「そんなものもいない」と言う。「じゃあ、その指輪は魔除けか」と言うと「好きだからしているだけ」とのことだった。しかし、実は好きな人がいるようだ。今はスペインに行っていて、音信が全くない。「もうスペインでいい人が出来たのかも」と天上を仰いで寂しげに言う。

 マリソルはエクアドル人にしては珍しく丸顔だ。色も浅黒い。しかし名前の通り、太陽のように明るく優しい子だ。日本から持ってきたお土産をあげると、たいしたものでもないのに「エルモッソ、エルモッソ」と大喜びする。昼食やコーヒーをご馳走しても、必ず何らかのお返しをする。日本人以上に礼儀正しく義理堅い。

 引越しの日、「マリソル」と声をかけただけで大粒の涙が溢れ、最早言葉にならない。エクアドルの女性の涙を見たのはこれが2度目だが、涙もろいのか激しやすいのか、意外な側面を見た思いだった。「近くなんだから、また来るよ」と素っ気なく言って、振り向きもせずに別れた。

 「好いていながら冷たい素振り、これがやくざの恋という」という言葉を聴いたことがあるが、このような場面ではどうすればいいのか解らない。何とも不甲斐ない別れとなった。

 

平成21年3月3日