エクアドル便り31号

竜舌蘭の生涯

 

 エクアドルに来て、竜舌蘭が多いのに驚く。道端、畑の畦、山にも。繁華街を除いて、目に付くところには竜舌蘭が繁茂している。想像していたものよりは概ね小振りだ。

 竜舌蘭は100種以上あるそうだ。メキシコを中心に米国南西部と中南米の熱帯域に自生している。和名に「蘭」とあるがラン科ではなく、むしろユリ科に近いようだ。一般に成長は遅く、花を咲かせるまで数十年を要するものも多い。100年に1度咲くという意味でセンチュリー・プラントという別名があるくらいだ。開花後には枯れてしまう一回結実性植物だ。生涯をかけて1度だけ花を咲かせ、実を結び、自分の子孫を見届けて果てていく。実に潔い生涯だ。

 竜舌蘭といえばテキーラを思い出すが、テキーラ竜舌蘭から製造されたものだけがテキーラなのだそうだ。インドでは線路沿いの生垣として植えられているそうだが、エクアドルでは畑の境界としても植えられている。竜舌蘭で作った縄は、水を吸うと良く収縮する。殺人のアリバイ隠しのトリックに使われることもあるそうだ。松本清張の世界のような話だ。

 竜舌蘭の実を拾ってきて、いま我が家の台所で栽培している。3ヶ月を経て漸く僅かに芽を出した。毎日この芽を見ながら潔い生き方とは何かを学んでいる。

  

     竜舌蘭の結実                     我が師、台所の竜舌蘭

 「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」有名な「葉隠」の言葉である。三島由紀夫の座右の書でもある。武士道の本質は死ぬことである。つまり生死2つのうちいずれを取るかといえば、死ぬほうを選ぶということだ。武士道を極めるには、朝夕繰り返し死を覚悟することだ。常に死を覚悟しているときは、武士道が自分のものとなるといっている。私流に解釈すれば、死を覚悟してことに当たれということか。生き恥をさらすなということかもしれない。

 「葉隠」は逆説的な本だ。「葉隠」が「花は赤い」といっているときは、その裏に「花は白い」という世論がある。「こうしてはならない」というときは、あえてそうしている世相がある。般若心経の「色即是空」に一脈通じるのもがありそうだ。三島の演繹的な死は、「葉隠」の影響を受けていることは間違いないだろう。

 「老子」には「上善如水」という言葉がある。最上の生き方は水のようなものだという。水は低きに流れ、どんな形にも変化する柔軟さがある。自分のアイデンティティーを才能や地位や実績に置いてしまいがちだが、これは傲慢を生むだけで謙虚さには程遠い。ナイチンゲールは「人間は賞賛を勝ち得ているときが最も危険なときです」と自分を戒めている。菜根譚には「順調にいっている時ほど、慎みを忘れないようにしなければならない」とも書かれている。

 「人がみごとに生きることは、むずかしいことだな」というくだりで始まる宮城谷昌光の「楽毅」は三国志の諸葛孔明にこの人ありと言わしめた中国の名将であるが、みごとな生き方、潔い生き方とは何か。「葉隠」を読んでも、「老子」を読んでも、理解は出来てもなかなかその境地に至らない。日々、竜舌蘭の成長を眺めながら教えを請うている。

 

平成21年3月12日

須郷隆雄