エクアドル便り41号
母へのセレナーデ
エクアドルで「母の日」を迎えた。エクアドルも5月の第2日曜日が母の日だ。
世界中何処でも母の日は同じと思っていたが、そうでは無さそうだ。母の日の起源はイギリスらしい。5月の第2日曜として広めたのはアメリカだ。日本では最初、1931年香淳皇后の誕生日であった3月6日を母の日とした。その後アメリカにならって5月の第2日曜日に行うようになった。母の日発祥の国イギリスは復活祭の40日前の日曜日、フランスは5月の最終日曜日だ。因みにアルゼンチンは10月の第3日曜日だ。日曜日であるのは世界共通のようだ。父の日が添え物のように6月の第3日曜日とされているが、母の存在の偉大さを改めて認識させられる。
7時半、闘牛場の第3ゲートに行ってみたが人はまばら。8時、ゲートはまだ開かない。満月が雲間に昇り始めた。さすがに時間を気にしないエクアドル人も苦情を申し入れている。やがて、入場口が1番と2番ゲートに変更になったという。何とも悠長な話だ。中に入ると耳を劈くような轟音。耳をふさがないと耐えられない。エクアドルは音の感覚が麻痺しているのだろうか。とにかくうるさい。セレナーデとはとても思えない。最初から期待を裏切られてしまった。隣に可愛い女の子が座ってきた。時々こちらを見てニコッとする。リズムに合わせ肩を振り、腰を振りながら物売りのおばさんが通る。
耳を劈くような前座が終わり、司会者が出てきたのは最早9時。ギターを抱えたグループがパスティージョ曲を奏でる。可愛い女の子に変わって、隣にデブッチョの4人姉妹が座る。ぺろぺろキャンディーをなめながら、グランヴィーニャという飲み物を回し飲みしている。嫌な予感がする。音量だけ高く、照明は暗い。次第に興に乗り、会場が熱気に満ちてくる。隣のデブッチョ、手拍子、好きな曲を大声で要求する。大声で歌いだす。会場は手拍子足拍子、手を上げ腰を振り踊りだす者もいる。ステージから客席に菓子が投げ込まれる。司会者が観客をあおる。熱気がエスカレートしていく。歌い手、グループは変わるが、セレナーデとは無縁だ。隣のデブッチョ4姉妹は興奮状態。陶酔したように大声で歌い、大きなお尻を振り振り踊っている。やかましい。他人の迷惑は眼中にないようだ。「女3人寄れば姦しい」と言うが、4人揃うととてもそばにはいられない。周りは皆立って踊っている。静かにしているほうが、肩身が狭い。司会者は更に「ビバ・リオバンバ、リオバンベーニョ」と煽り立てる。幸せな国民だ。脳天気と言ったらいいのだろうか。デブッチョ4人組はグランヴィーニャを4リットル飲み干してしまった。飲み物に酔ったのか、歌に酔ったのか、踊りまくり、歌いまくりである。飲み物はかかるし、とてもそばにはいられない。
時計を見ると最早1時。一向に終わる気配がない。かなり冷え込んできた。アルゼンチンの「ペーニャ」に似た雰囲気だが、今ひとつ上品さに欠ける。会場が闘牛場だったのが良くなかったのかもしれない。「母へのセレナーデ」とは一体なんだったのか。がんがんする頭に襟を立て夜道を帰った。こうこうと満月が冴え渡っていた。眠りに就こうとすると、我が家の前で突然音楽が鳴り響く。歌まで歌っている。移動音楽隊のようだ。最早2時、一体何事か。母の日を祝う音楽隊のようだ。孝行息子が母に捧げた音楽隊だ。あちらでもこちらでも聞こえてくる。深夜というのに、近所迷惑という概念はないのだろうか。眠れない一夜を過ごす破目になった。
とんだ「母へのセレナーデ」になったが、母への想いは何処の国も同じのようだ。生前、母は「お前が会いに来てくれるのが一番のプレゼントだよ」と言っていたので、プレゼントらしいものはしたことがない。あの世にいる母に、これから会いに行くわけにもいかない。墓前にカーネーションでもと思うが、エクアドルではそれも叶わない。親不孝な息子である。
山田洋次監督、吉永小百合主演の「母(かあ)べえ」では、周囲の多くの人々を失いながらも家族を愛し、戦前戦後を生き抜いた「日本の母」の実像を描き、いま失われつつある家族愛や母の悲しみを伝えている。サユリストとして見に行ったものの、良くは覚えていない。卓袱台を囲む家族の団欒と吉永小百合の割烹着姿が印象に残っている。シェークスピアの言葉に、「女は弱し、されど母は強し」というのがある。私は更に「母は悲し」を付け加えたい。「母は強し、されど母は悲し」としたい。子を育てる母は強い。強くなければ育てられなかった。しかしその強さの中に数え切れないほどの悲しみを包み込んできたのだろうと思う。今その母を思うとき、「母の悲しみ」を身にしみて感じる。
山頭火の句に「母よ、うどんをそなえてわたしもいただきます」というのがある。母は永遠の憧れであり、永遠の師でもある。「おふくろさんよ、おふくろさん。空を見上げりゃ、空にある。」お袋というようになったのは何時頃からだったであろうか。多分親元を離れた頃からだろう。親父と呼ぶのと同じ頃だったと思う。照れ隠しと親への対抗心からだったかもしれない。お袋が亡くなった今、母親としての存在の偉大さに気付き始めている。時既に遅しであるが。お袋を想う一日であった。
平成21年5月10日
須郷隆雄