エクアドル便り45号
死刑台のメロディー
日本では、5月21日に裁判員制度がスタートした。しかし日本でも1928年から1943年まで裁判員に当たる陪審員制が行われていた。
陪審員の起源は、少なくても9世紀初頭のフランク王国に遡ることが出来る。現代の陪審員制の形成には、12世紀のイングランド王ヘンリー2世の設けた制度と1215年のマグナカルタが大きく寄与したと言われている。
エクアドルの司法権は、31名の判事で構成される最高裁、15の高等裁及び40の地方裁が司っている。刑事訴訟は、1名の判事と3名の陪審員からなる特別陪審で行われ、科料は禁止されている。死刑はない。しかし、国内には未決拘留者が多く、1万人を越えるとも言われている。また、裁判制度自体の見直しが必要とも言われている。最高裁の私物化も指摘されていた。
無期懲役刑の菅家利和さん(62歳)が執行停止で釈放された。4歳女児誘拐殺人事件、いわゆる「足利事件」だ。1991年12月に逮捕され、17年半ぶりの釈放である。「今から考えると自分でも解らないが、話をしないと調べが前に進まない。早く終わらせたかったんだと思う」と自白の経緯を振り返る。「小さい時から、人からものを言われると何も言えなくなってしまう。相手の機嫌を損ねることが嫌い」と自己分析する。何とも痛ましい事件だ。20年近い拘留生活をどのように償うことが出来るのであろうか。「間違いでした。ご免なさい」で済む問題ではない。捜査当局の「先入観や思い込み」が生んだ悲劇であろう。最高検次長検事の謝罪に対し、「警察や検察は私の目の前でちゃんと謝罪することです。裁判官も同じです。絶対に許さない」と言っている。無実の罪で拘留された17年半に及ぶ人生をどう償うことが出来るのだろうか。人か人を裁くことの難しさを痛感させられる。
日本の4大冤罪事件と言えば、免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件がある。ともに30年に及ぶものだ。1949年強盗殺人で逮捕され、51年死刑が確定し、83年再審無罪が確定した免田事件の免田栄さんは83歳になる。「ぜひ会ってみたい。同じ経験をした人。十分に通じあえると思う」菅家さんを理解し得るのは免田さん唯1人ではなかろうか。会った時の言葉が「お互い元気でよかった」であったそうだ。20年に及ぶ逗留生活をこの一言が全てを物語っているような気がする。
菊池寛の小説に「恩讐の彼方に」がある。豊前の国(大分県)山国川沿いの耶馬渓にある「青の洞門」の話だ。主人殺しの市九郎はその後出家し「了海」と名乗り、全国行脚の旅に出る。豊前の国樋田郷で難所の岩場に遭遇する。事故で命を落とす者を救おうと岩場の掘削を始める。親の仇と名乗る実之助に出会う。斬られることを望むが、洞門の開通まで仇討ちを日延べする。掘り始めて21年目、実之助が来て1年6ヶ月、洞門はついに開通する。2人は手を取り合って涙する。冤罪ではないが、罪の償い方を教えてくれる。
裁判員制度には賛否両論があるが、裁判を真摯に考えるいい機会のような気もする。人が人を裁くことは難しい。真実は神のみぞ知る。しかし神は人を裁かない。「先入観と思い込み」を排除した科学捜査が求められるが、最後は人が判断する。裁判員制度のスタートと足利事件の執行停止釈放が、「人が人を裁く」とはどういうことなのかを考える機会を与えてくれた。
平成21年6月10日
須郷隆雄