エクアドル便り49号

日本の夏

 

満月のキト国際空港に向かった。デルタ航空23時30分発だ。順調な搭乗手続き、機内は最早アメリカだ。キューバ上空を横切りマイアミからアトランタに向かった。西の空に満月が見える。5時間のフライトで5時50分、「風とともに去りぬ」のアトランタ空港に到着した。入国手続きが厳しい。ベルトもはずさせ、靴も脱がされる。そのうちズボンも脱がされ、パンツ一丁にされるかもしれない。超大国アメリカの横暴のような気もする。しかし、黒人の「おはよう、有難う」の挨拶は爽やかだった。総合案内所では中国人風の案内嬢が日本語で説明してくれた。成田への出発は14時20分、8時間待ちだ。眠りをこらえての8時間はかなりきつい。カフェラテを飲みながら、ぼやっと人の流れを追っていた。色々な人種が通る。東洋系は決して格好いい人種とはいえない。

ボーイング747、400人乗り、ノース・ウェストとの共同運航だ。太平洋をまたぐ11,000キロ、14時間の飛行だ。太陽とともに、同行二人の遍路旅でもある。食事と眠りの肥育旅かもしれない。機内の雑誌をめくっていた。「日本の旅は通過型、欧米の旅は滞在型」という記事が目に留まった。古来、お伊勢参りや金毘羅参り、四国88ヶ所霊場巡りなどが日本の旅の原型のようだ。弥次喜多道中の東海道中膝栗毛がその典型なのかもしれない。移動が旅であったのだ。腰が痛くなってきた。ぶらぶらと歩く人、体操をする人も出てきた。30分早い16時30分、七夕の成田に到着。新型インフルのチェックもなく順調にふるさと日本に入国した。家族の出迎えを受ける。娘の運転でゆっくりと我が家に帰る。見慣れた風景だ。例の如くすき焼きだった。家族との久々の団欒を味わったが、疲れもあって食はあまり進まなかった。蒸し暑い日本の夏にもかかわらず、翌日は1日寝ていた。

  

         祭囃子                            一茶句碑

1ヶ月前からの肩の痛みに耐えかねて、先ず整形外科へ、次いで歯医者へ、そして眼科へ。病院三昧の日々が始まった。健康診断では毎度の事ながら胃の組織の一部を採取される。合間を縫って、てぐすね引いて待ち構えていた仲間たちから連日の如く、虐待的歓迎を受ける。決して健康管理のための1時帰国とはいえない。しかし、持つべきは友を実感する。

待ち焦がれていた年老いた父親を訪ねた。会っても会話がある訳ではない。代わりに女房が話し相手を務める。野良猫が1匹住み着いたようだ。我々には一向になつかないが、親父の足元から離れない。夜はベッドで一緒に寝ているようだ。薄汚い猫だが、親父には大切な話し相手なのだろう。

成田空港と銚子の中間辺りに多古米で有名な多古町がある。道の駅によってみた。九十九里に注ぐ栗山川に屋形船が浮かび、菜の花祭りやアジサイ祭りが催されるそうだ。ボランティアによる「かもちんの会」が運営しているとのことだった。忘れかけていた「かもちん」の名に、子供のころの思い出が甦った。沼に潜ってなまずやかもちん、鮒を追い回した記憶だ。かもちんは醜い顔をしているが、愛嬌のある顔でもある。どうも雷魚のことらしい。

我が家の近くの駅前で夏祭りが行われていた。小中学校の生徒による吹奏楽、おば様のフラダンス、よさこいソーランやら和太鼓、鉢巻をしたお姉さん方のエアロビなど、元気なのはやはり女性だ。男は屋台で焼き鳥を片手にビールを飲んでいる。日本の将来は女性にかかっているようだ。近くの一茶双樹記念館に行ってみた。祭囃子を古式豊かに演奏していた。こちらはおじいちゃんが主役だ。べエゴマ、ラムネにポンポン蒸気船、子供の頃を思い出させる催しに、しばし童心に返った。1804年9月2日に小林一茶が当地で詠んだ「夕月や流れ残りのきりぎりす」の句碑がひっそりと佇んでいた。

健康管理帰国も終盤に近づいたある日、JICAから「ピロリ菌と十二指腸潰瘍です。医者の紹介状を送りますので再検査を受けて下さい」との事だった。これは再赴任は無理かなと思いつつ、消化器内科を訪ねた。「ピロリ菌を除菌しましょう」との事で、1週間抗生物質を飲み続ける。その間も仲間の暴力的歓迎の延長で、併せて酒も飲み続ける。「結果は帰国後調べましょう」との事だった。再赴任の許可が下りたのは帰国4日前だった。

妻と娘の見送りを受け、体調が優れず気の重い旅立ちとなった。久々の夏空、坂東太郎利根川と犬吠崎がはっきりと見える。後ろ髪を引かれる思いで見送った。飛行機は一路北に舵を取り、カムチャッカからアラスカへと北極圏に向かった。心は次第にエクアドルへとチェンジして行った。

 

平成21年8月7日

須郷隆雄