エクアドル便り53号

氷壁アルタール

 

リオバンバから北西にチンボラソ山、北東にトゥングラウア山、東の方角にアルタール山が聳えている。ともに5000mを越える。トゥングラウアとアルタールは霊峰サンガイ山とともにサンガイ国立公園に属する。サンガイ国立公園は1983年に世界自然遺産に登録された。天気のいい日は、我が家の屋上からもこの三山がぐるりと見渡せる。富士山に良く似たエクアドル最高峰のチンボラソ、今も噴煙を吐いているトゥングラウア、カルデラ湖を持つ休火山アルタール。それぞれに特徴がある。まだ訪れていないアルタールに行ってみたくなった。

6時35分発のレイ・レチェ行きだ。ターミナルにバスがいない。車掌に聞くと「角の交差点だ」と言う。「今来た来た」と指を指す。慌てて駆け込む。相変わらずのおんぼろバスだ。一点の雲もない。まれに見る快晴だ。隣の子連れに「レイ・レチェ行きか」と確認する。幸運にもこの子連れもレイ・レチェまで行くとのことだった。朝の空気は冷たい。息が白い。バスは快調に進む。朝日が心地よい。渓谷に川が蛇行している。川を渡るとペニペだ。30分を要した。ブランカ川を右に見ながら、急坂を軋みながら登る。小さなカンデラリア村に到着。乗客の多くが降りてしまった。遥か下の渓谷を流れるコジャンテス川を見下ろしながら砂利道を登っていく。8時ちょうど、行き止まりの終着駅レイ・レチェに到着した。降りた乗客は子連れを含め5人だった。ただ1人、置いてきぼりをくう。1つだけある看板に、サンガイ国立公園、アルタールまで8.5kmと書かれていた。車掌に「次ぎのバスは何時だ」と聞くと、「2時半だ」と言う。1日1往復しか走っていないそうだ。
  

          アルタール                          チンボラソ

早速登り口を確認して、登っていく。6時間半の猶予だ。人っ子1人いない。川のせせらぎだけが聞こえる。雲一つない快晴だ。犬に吠えられる。牧場が広がっている。REY LECHE(牛乳の王様)という地名が頷ける。乳搾りに誘われて、牧場に入っていった。「アルタールはこの道でいいのか」と確認すると、「向うの道だ」と言う。早速道を間違えてしまった。「この道でいいんだね」と再度確認すると、「そうだ、そうだ」と手を振って応えてくれた。次の標識にはアルタールまで12kmと書いてある。どっちが正しいのか解らないが、行けるところまで行こうと決めた。かなりの急坂だ。足元も良くない。後方にチンボラソが富士山のように聳えている。雲一つないチンボラソを見るのは始めてだ。美しい姿だ。聞こえるものは何もない。静寂の世界だ。アルタールから降りてきたキトの若者3人に会う。「ここからは5時間かかる」と言う。アルタールのカルデラ湖LAGUNA AMARILLA(黄色い湖)でキャンプをした帰りなのだろう。チンボラソをバックに写真を撮り合い、別れた。静かだ。霜が降りている。チンボラソが付いて来る。

峠を越えるとアルタールが槍ヶ岳のように鏃を天に突き立てていた。穂高のように氷壁が立ちはだかっている。胸がときめく。暫し、水と虎屋の羊羹で疲れを癒す。しかし山に挟まれ、全容は見えない。切れるはずのないナイロンザイルが切れた。友情と恋愛の確執を山という自然と都会とを照らし合わせて描いた井上靖の「氷壁」を思い起こしていた。日本のマッターホーン槍ヶ岳は、登山家加藤文太郎の生涯を題材とした新田次郎の「孤高の人」に描かれている。

草原を歩く。牛が草を食んでいる。前方に山火事。一点の雲もなし。足取りは快調。六根清浄お山は晴天。清流が道を遮る。小さな滝。水が冷たい。風が心地よい。山火事の煙を抜ける。しかし、行けども行けどもアルタールは全容を見せない。奥が深い。後ろにチンボラソの雄姿。最早12時だ。4時間は歩いた。残すは2時間半だけだ。猶予はない。チンボラソを背に、アルタールに向かい放尿する。真黄色だ。疲労困憊のようだ。カルデラ湖黄色い湖まではとても行けなかったが、せめて黄色いおしっこで我慢した。

上り4時間を2時間半で下るのは結構きついものがある。ぬかるみに足を取られないように必死で降りる。最早景色を楽しむ余裕はない。山火事が一層激しくなっている。足元まで燃え広がっている。煙を一気に通り抜ける。馬2頭、牛2頭、犬1匹を連れたガウチョに出会う。話をする余裕はない。駆け足状態だ。のめりそうになる。足のまめが痛む。既に時刻は2時半間近だ。バスが出てしまったらどうしようと不安がよぎる。バスがエンジンを掛け、出発直前。手を挙げ大声で「待ってくれ」とバスにへたり込む。心臓が止まりそうだ。車掌や乗客が笑顔で迎えてくれた。来た時の親子連れも一緒だった。帰路の1時間半、足の痛みと疲れで呼吸をするのも苦しかった。

年甲斐もなく強行軍だった。毎度のことながら「解っちゃいるげど止められない」植木等の「すーだら節」のようだ。バス代は往復180円。これだけの予算で、これほどの感動とこれほどの苦痛を味わえるとは。何とも価値ある180円だった。

 

平成21年9月13日

須郷隆雄