エクアドル便り54号

オタバロの土曜市

 

キトから「アンデスの廊下」といわれるパン・アメリカ道を北へ100キロほど行ったところにオタバロはある。オタバロは先住民族オタバロ族の名であるとともに彼らが暮らす土地の名でもある。人口4万弱、インバブラ山(4609m)とコタカチ山(4939m)に挟まれた盆地の町だ。エクアドルで最も経済的に成功した先住民の町としても知られている。手織物や民芸品を三つの広場に持ち寄り開かれる土曜市には、大勢の観光客が訪れる。

キトの北端のバスターミナル、セルセレンにはオタバロ行きの外人観光客が目立つ。アンデスの廊下を北へと下っていく。バスは満席だ。小さな女の子が母親に連れられて立ったまま、じっと私を見ている。席は指定席、代わるわけには行かない。心を鬼にして、見て見ぬ振りをした。窓から平気で物を捨てる。雲隠れした5790mのカヤンベ山を右手に見ながら更に下っていく。牧場が広がっている。再び右手に大きなサン・パブロ湖がインバブラ山の麓に顔を出す。榛名山の麓の榛名湖のようだ。キトを発って2時間、オタバロに到着した。

  

             オタバロの土曜市                       ルミニャウィ

大通り、広場、路地に出店が氾濫している。織物、タピストリー、バック、セーター、ポンチョなどの手芸品、ケーナ、サンポーニャ、チャランゴなどの楽器、所々に市場を思わせる食材なども売っている。まさにインディヘナの市場だ。外人観光客も多い。買い物客も多いが、それに劣らず出店も多い。見ているだけで目が回る。特に買うものもなし。

公園の真ん中に逞しい顔をしたインディヘナの像があった。見ると「ルミニャウィ」と書かれている。ルミニャウィはインカ帝国のキトの覇者アタワルパに仕えた武将だ。ルミニャウィはスペイン軍の侵略を防ぐため、キトを破壊し抵抗した。しかしインカの抵抗はやがて制圧され、1534年にフランシスコ・ピサロによって、キトはスペインの植民地として支配された。オタバロ族の侵略者に対する抵抗の象徴として、今もこの地に立っている。同じ公園の通りでパントマイムをしている青年に出会った。1ドルを入れると、天使のポーズをとってくれた。逞しいルミニャウィと天使ポーズの青年の顔が対照的で、500年近い時代の流れを感じた。

とうもろこしとジャガイモ、肉の入った一皿盛の地元料理を食べてみた。オタバロ族の伝統料理だそうだ。うまいともまずいとも言えない複雑な味だ。公園に戻ると教会で結婚式が行われていた。新郎は黒いポンチョ、新婦は白い民族衣装だ。よく見ると新婦のお腹が大きく膨らんでいる。「出来ちゃった婚」のようだ。こればかりは世界的な流行なのかもしれない。

サン・パブロ湖は思ったより大きい。後ろにインバブラ山、その後ろにコタカチ山が聳えている。撫肩の優しいインバブラは男山、更に高いごつごつしたコタカチは女山だそうだ。オタバロは女性上位、かかあ殿下の町なのだろう。この湖はトライアスロンの会場としても使われているとのことだった。トライアスロンはガラパゴスが有名だ。1周20分、1人6ドル。セーフティー・ジャケットを着け、小型クルーザーで出発する。水しぶきがかかる。水鳥が慌てて飛び立つ。インバブラが湖上に聳える。どんよりと曇り空だ。肌寒い。しかし水を切って走るクルーザーは爽快だ。岸向こうからバンド演奏が聞こえてくる。

オタバロに別れを告げ、キトに向かう。カヤンベ山は相変わらず雲に覆われている。麓は同名の町カヤンベだ。チーズや穀物の町として知られている。バスから眺めるだけで通過した。山に挟まれたキトの町は北へ南へと発展を続けている。ターミナルも以前は町の中心にあったが、今は北と南の外れに移転された。そこをトロリーバスで繋いでいる。都心に出るまで1時間ほどかかる。我々にとっては不便なターミナルとなった。

オタバロの人々は、1534年にスペインに征服される以前から織物を生産していた。しかし20世紀半ば以降は政府の観光芸術振興政策や国際観光ブームを背景に、観光客を対象とする民芸品の生産と販売を行うようになり、オタバロの名を世界に知らしめた。また商才に長けたオタバロ族は、南米、中米、北米、更にヨーロッパへと行商に出かけ、オタバロ文化の普及にも努めた。行商活動はオタバロ社会に経済的発展をもたらしただけでなく、様々な点で文化や社会を変容させる契機となった。オタバロたちは伝統を破壊していると批判されながらも伝統を考え、先住民としての存在に向き合う機会を持つようになった。グローバル化の波が押し寄せる中、先住民族の進むべき道を今も模索している。

 

平成21年9月19日

須郷隆雄