エクアドル便り55号
野口英世の足跡
野口英世像 ノグチ通り
野口英世の銅像が、新市街にあるキト最大の公園カロリーナ公園の北側「日本通り」を公園に100mほど入った左手にあると聞き、早速会いに出かけた。しかし探せども、探せどもない。2往復してみたが見当たらない。売店のおばちゃんに「野口英世の銅像は何処にあるのか」と聞いても一向に解らない。諦めて帰るが、どうしても会いたい。「ノグチ通り」のある日本庭園に銅像が建っているとの情報を得た。早速行ってみた。以前剣道大会のあったルミニャウィ体育館の近くに、確かに50mほどのノグチ通りはあった。しかし日本庭園なるものは見当たらず、ましてや銅像もない。近所の人に聞いてもこれまた「知らない」とのことだ。いったい何処に雲隠れしたものか。「日本通り」をカロリーナ公園の北へ更にくまなく歩いてみた。在りました。日本大使館の近く、小さな公園の中に千円札の野口さんがにこやかに立っているではありませんか。暫し茫然自失、無言のご対面であった。千円札の写真は、エクアドルで撮影した彼のお気に入りの写真だそうだ。グアヤキルにも同じ銅像が立っている。ノグチ通りも存在する。
野口英世は明治9年(1876年)11月9日に福島県猪苗代町の貧農の子として生まれた。幼名を清作という。明治18年(1885年)に出された坪内逍遥の「当世書生気質」の中に野々口清作なる人物が登場する。借金を重ね、遊郭に出入りする悪癖を持った書生として描かれている。野口は、野々口清作なる人物が自分をモデルにしたものと思い込み、改名を決意する。「世にすぐれる」という意味で「英世」とした。当時改名は極めて難しく、面白い逸話がいくつか残っている。野口の母は勤勉で努力家であったが、父は酒好きで怠け者だったようだ。野口は両方の血を等分に引き継ぎ、努力家の反面、放蕩癖もあった。明治33年(1900年)12月、結婚持参金300円を渡航費にあて、アメリカに渡った。その後、斉藤家との婚約を破棄し、アメリカ人女性メリー・ダージンと結婚する。
ガーナのアクラで黄熱病原を研究中に自分自身が感染し、51歳の若さで生涯を終えた。終生免疫が続くはずの黄熱病に再度かかったことを不思議に思い、「どうも私には分からない」との発言が最後の言葉になった。野口の研究の多くは、現在は否定されている。しかし、東大、京大、ブラウン大、イェール大から医学博士や理学博士を授与され、ノーベル医学賞候補に3回もなっている。今は、野口英世記念医学賞と野口英世アフリカ賞が残されている。
野口英世は郷里猪苗代を出るとき、生家の柱に刻んだ言葉「志を得ざれば、再び此の地を踏まず」が今も残っている。「偉くなるのが敵討ちだ」とも、「名誉のためなら危ない橋でも渡る」とも言っている。また、フランス語から「忍耐は苦しい、しかしその実は甘い」を好んで使った。波乱万丈の生涯であった。黄熱病は当時、ウィルス説と野口の言う細菌説の両方の学者がいた。その正体が人の目で確認されたのは、電子顕微鏡の開発が進んだ1950年代のことである。「人類のために生き、人類のために死す」と言っていいのではないか。千円札に値する生涯であった。
平成21年9月30日
須郷隆雄