エクアドル便り69号

インディヘナの女たち

 

 11月25日は「女性に対する暴力撤廃国際日」だそうだ。女性への非暴力の日ということだ。何だかぴんとこない。日本の世相を見ると、いまや暴力を受けているのは男ではないのかと思うほど「男は弱く」「女が強く」なっているように思われてならない。しかし、平成18年の統計によると日本でも18,236件の相談が寄せられている。必ずしも女性からだけの相談とは言えないようだ。世界では4人に1人が被害にあっているというデータもある。

 エクアドルでは、少なくても15歳から49歳までの女性の30.9%が15歳前に何らかの暴力を受けているという。31%が肉体的な暴力、40.7%が精神的暴力、11.5%が性的な暴力を受けたと証言している。女性への暴力、子供の基本的権利である教育の剥奪、女性蔑視、家庭内暴力など、それを生み出す社会風土がありそうだ。年間3,000件の訴えがある。100万人の女性や子供が肉体的、精神的、性的な暴力を受けているとも言われている。しかし家庭はこの問題を公にすることを嫌っている。

  

公園でのインディヘナ        インディヘナの住まい

 インディヘナの女性は、夫に2年毎に子供を生むことを強要されている。もしそれを拒めば、夫の暴力を受け、裏切られ、そのうえ回りの人々から非難と影口をたたかれるという。多くの場合、報復を恐れ泣き寝入りしている。新聞は「Violencia Todavia es el pan del dia(暴力は未だ日常茶飯事)」と報じている。

 インディヘナの女性は良く働く。働かされているというべきかも知れない。家事をし、育児をし、農作業も女性の手に委ねられている。1年おきに子を産み、子を背負い、労働に励む。町で見かけるインディヘナの女性は殆どが子供を背負っている。両手に子供、背中に子供、更に大きなおなかというインディヘナを見かけることもある。まるで子供を生む機械のようだ。「貧乏人の子沢山」というが、この貧困の悪循環を断ち切らねばならない。インディヘナ人形は必ず子供を背負っている。過酷な労働のせいか、日本の女性と比べれば20歳は老けて見える。老婆が時折裸足で歩いているのを見かける。子供の代わりに何やら食料のようなものを背負っている。インディヘナの女性は、背負うことが習性になっているのかもしれない。

 中原俊監督作品「DV(ドメスティック・バイオレンス)」が2005年に上映された。ある日突然、夫の態度が変わる。そしてエスカレートする。日本ではDV被害者が40万人に上るといわれる。平成13年にDV防止法が制定され、16年に改正法が制定された。しかし、エクアドルのインディヘナ女性の受けているDVとは次元が違うように思われる。最早、インディヘナの伝統文化とすら言っても過言ではない。

 コーランには「アラーはもともと男と女に優劣をつけた。女はひたすら従順に、反抗的な場合はちょうちゃくを加えても良い」と記されている。ちょうちゃくとは、拳や棒などで打ちたたくことだ。ドメスティック・バイオレンスは男の権利として一定程度認められていた。男尊女卑から生まれた長い歴史を物語っている。しかし、天照大神を頂く日本では、「元始、女性は太陽であった」と終生婦人運動及び反戦平和運動に献身した平塚らいてうの言葉が残っている。

 豊かで平和な国は、概ね女性や子供が幸せで元気だ。貧しさの犠牲は女性や子供にしわ寄せされる。コミュニティーのインディヘナ社会は貧しい。これを単にドメスティック・バイオレンスといって、女性蔑視で片付けられる問題ではない。「歴史の影に女あり」「事件の裏に女あり」と言うが、「貧困の影に女性の犠牲あり」「貧しさの裏に子供の犠牲あり」と言える。日本も戦争の時代、貧困の時代には女性は決して太陽ではなかった。愛しい女性を虐待したい男はいないはずだ。それを生み出す社会風土の根源は「貧しさ」にあるように思う。それは必ずしも経済的貧しさだけでなく、心の貧しさも含まれている。「Violencia todavia es el pan del dia」の報道が、エクアドルの「インディヘナの女たち」の苦悩を物語っていた。

 「Me duele que me traten como una mujer mala, los golpes finalmente no importan, pero las palabras y lo que piensan de mi me duele mucho mas.(悪い女として扱われるのは辛い。暴力は重要なことではない。会話や私の痛みを考えてくれることのほうがもっと重要です)」とある被害女性は証言していた。

 

平成21年12月1日

須郷隆雄