エクアドル便り7号

世界遺産キト旧市街

 

 語学研修最終日、筆記試験後、近くの教会で語学発表会があった。1ヶ月の成果が試される晴れ舞台だ。皆立派な発表だった。それなりの成果を実感させられた。安堵感の中で、ホームステー先の家族も含め送別会が行われた。我が家のサルトルご夫妻も出席された。修了証を見せると抱擁とキスで祝福してくれた。ネクスス語学学校側は修了者の名入りの気球を1人ずつ揚げ、今後の活躍と無事を祈ってくれた。夜空に舞い上がっていく気球の行く末を呆然と眺めていた。1ヶ月の日々とこれから訪れる日々が不安と期待となって交錯し、幻想の世界に暫し浸った。

 翌朝、家族の熱い別れと「メールと写真を送れ」との言葉を胸に、クエンカを後にした。雲を抜けると、そこには赤道直下の太陽があった。再びキトだ。

 ばい煙で洟や痰まで黒くなるキトは決して良い町とはいえない。トロリーバスで中央銀行考古学博物館に行ってみた。エクアドル海岸地方に栄えたバルディビア文明時代の土器や金細工などが展示されていた。日本の縄文土器との類似性から、古代日本人が小船でエクアドルの海岸に辿り着き、土器の製造技術を伝えたとの説もあるが、信じ難い話だ。隣のエヒド公園でケーナとシークスの音色。青年が無心にナスカ音楽を演奏している。CDを1枚所望した。

 
 
    独立広場前の大統領府


 
  

赤道記念碑

 仲間の希望を募り、世界文化遺産に指定されているキト旧市街と赤道記念碑を訪ねる。

 1809年8月10日の独立記念碑が建つ独立公園は大統領府や市庁舎、カテドラルに囲まれた殖民地時代からの中心だ。エクアドルは南米で一番早い独立を勝ち得たが、実質的独立を成し得るまでにはその後20年の歳月を待たねばならなかった。1657年建設のカテドラルは「カロンデレット・アーチ」として知られる扇状形の階段を持つ教会だ。独立運動の中心であり、暗殺されたスークレ将軍が埋葬されている。前でスークレ将軍の追悼なのか、なにやら集会が行われていた。広場ではインディオ系の集団が歌にかね太鼓で集会を開いている。大統領府はコレア大統領の下に反米の拠点になりつつある。中に歴史博物館があり、独立前の弾圧の模様が蝋人形で再現されていた。かつては牢獄でもあったようだ。日系人の案内係が丁寧に説明してくれた。近くにサン・フランシスコ教会がある。アンデスのエル・エスコリアル宮殿とも呼ばれ、南米一古い教会でもある。この旧市街には400年前の植民地時代の建築物が今も生き続け、スペイン統治時代の栄華とそこを歩くインディオとのアンバランスな一体感が何とも妙で、これがエクアドルなのだと実感させられる。

 キト市内を一望できるパネシージョの丘に登る。180mほどの丘である。頂上には大船観音のような巨大な聖母像が立ち、市内を見下ろし、市民の平和と安寧を見守っている。しかしながらその効果もなく、スリ、強盗、暴漢が多く、最も危険な場所としても有名だ。ここから見る夜景は素晴しいとのことだが、硬く禁じられ見ることはできなかった。

 キト市の北方約22キロのところに赤道記念碑がある。北半球と南半球を分ける赤道なのだ。この赤道をまたいで、多くの観光客が代わる代わる写真を撮っていた。中央広場でアンデスの踊りが披露されていた。若い男女、子供を交え、赤、白、緑と、色とりどりの民族衣装をまとい、ケーナやシークスの音色に合わせ踊る様は天上の楽園を思わせる。感極まった老人が踊りに合わせてステップを踏む。一斉に拍手が起こる。感動的な光景だ。

 しかし、本物の赤道はそこから200mほど離れたところにある。そこにちょっとひなびた赤道博物館がある。赤道上に立つと、水は渦を巻かずに下に落ちる。南北に1mずれただけで、それぞれ左右に渦を巻く。何とも不思議な気分だ。コロンブスの卵ではないが、釘の上に卵が立つ。ここからは北斗七星も南十字星も見えるそうだ。体重も1、2キロ少なくなるそうだ。ダイエットに苦しんでいる御仁は、1度訪れてみては如何だろうか。リャマに見送られ、赤道を後にした。

 明後日、外務省に表敬訪問をし、午後配属先のチンボラソ県庁職員と南米を縦断する「アンデスの廊下」といわれるパン・アメリカ道路を一路リオバンバに向け南下する。夕闇のリオバンバに午後7時到着。最早エクアドルに到着後1ヶ月余りが過ぎている。 

 翌日、県知事主催の歓迎レセプションが開かれた。テレビ、新聞等報道関係がわんさか集まってきた。いよいよこれからだなという緊張感が湧いてきた。それにしても、やたらおならが出るのはどうしたものか。

平成20年10月28日

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