エクアドル便り71号

マカスのプリシマ

 

 明るさを取り戻し始めた5時45分、マカスに向かった。マカスはリオバンバの南東245kmにあるモレノ・サンティアゴの県都だ。ウパノ川沿いにある人口1万ほどの、アマゾンに程近いオリエンテの小さな町である。

 以前訪れたアティージョ湖を通過する。前回は霧のアティージョ湖だったが、今回は小雨煙るアティージョ湖だ。なかなかその全容を見せてくれない。パハの草原、岩むき出しの山をマカス側に下ると風景は一変する。アマゾンからの暖かい湿った空気で、ジャングルの様相を呈する。ひたすら下る。滝が幾筋も流れ落ちている。明かり1つない暗黒のトンネルを抜ける。所々に集落。チーズとトルーチャ(鱒)で生計を立てているようだ。木造の家が多い。霧が流れる。橋が流されている。川をそのまま渡る。危険極まりない。やがてバナナ、椰子へと植生が変わる。アナナスが木に、無数にへばり付いている。小雨煙るマカスに到着した。

 意外にインディヘナが少ない。トウモロコシと一緒にユカが植えてある。ユカの木を見るのは始めてだ。天狗の団扇のような葉だ。木というよりは草といった感じだ。よく食事に出されるが好みではない。キャッサバのようなもので、サツマイモの美味しさはない。

  

    マカス教会                    マカスの聖母像

 町の中心はやはり教会だ。カトリックの重厚な教会ではない。中で葬儀が行われていた。前の公園には弓をかざしたインディヘナ女性の像が立っていた。一握りの小さな町並みが見渡せる。向かいの小高い丘に何やら観音様のような像が見える。タクシーの運転手に「観音様までいくらかかる」と聞くと「行き帰り往復で10ドル」と言う。ちょっと高いかなと思ったが、「町に行ったら、一番高いところに行ってみろ。そこからその町を良く見ろ。そうすればその町がどういう町なのか良く解る。」と教えた歩く民俗学者宮本常一の父親の言葉を思い出し、行ってみることにした。

 町が一望に見渡せる。教会の裏に川が流れている。ウパノ川かどうかは定かではない。川沿いに開けた町だ。しおからトンボのような飛行機がゆらゆらと下りてきた。小さいながらも飛行場がある。町よりも気温が2、3度低い感じだ。大きな聖母像が立っている。未完成で、上ることは出来ない。「PURISIMA DE MACAS」と表記されていた。プリシマとは「無原罪の御宿り」「聖母像」と辞書には書かれている。マカスの聖母像ということだ。しかし「無原罪の御宿り」とは一体何なんだ。

 聖母マリアは原罪の穢れなしに受胎したとするカトリックの教義から来ているようだ。神の子イエスが宿る聖器に選ばれた聖母マリアも、原罪なしに生まれた穢れなき存在でなければならないとする教義に由来する。アダムとイブが禁断の木の実を食べたことから、人間は生まれながらに罪びとという。イブより先にリンゴを食べた女性のほうが罪深いようだ。12月8日は聖母マリアの無原罪の御宿りの日だ。この日から9ヵ月後の9月8日がマリアの生誕の日とされている。この12月8日からクリスマスの準備が本格的に始まる。しかしプロテスタントはこの考えを認めていない。マリアが神の子イエスを受胎した時、原罪の穢れから免れたとしている。マリアが受胎した時なのか、マリアを受胎した時なのか、「聖母受胎」は「が」と「を」の違いによって教義が異なる。宗教の世界もなかなか難しい。

 キリストの世界では「人は生まれながらに罪びと」と言うが、東洋には孟子の「性善説」と荀子の「性悪説」がある。性善説によると「人間の本性は善である」とする。人は生まれながらに四端の心を備えている。惻隠(憐れみの心)羞悪(不正を羞恥する心)辞譲(謙譲の心)是非(善悪を分別する心)だそうだ。性悪説によると「人の性は悪なり、その善なるものは偽なり」とする。しかし荀子の言う「悪」とは、自然な欲望のことであり、日本語のいう「悪」とは異なる。「人の性の悪」は結論ではなく、前提であり、後天的努力を重視している。孟子も荀子も人を道徳的に陶冶しようとする姿勢は共通している。方法は異なるが目的とするところは同じということだろう。

 宮本常一の父親の言った「一番高いところに行ってみろ」という教えは、10ドルに換えがたい価値があった。再び通過したアティージョ湖がその全容を現していた。

 

平成21年12月15日

須郷隆雄