エクアドル便り77号

インディヘナの反乱

 

 1月14日の地方紙プレンサに「Manuela Leon: La Indigena Rebelde Levantamiento De 1871マヌエラ・レオン:1871年インディヘナの反乱)」という記事が載っていた。

マヌエラ・レオンの名は強さと勇気、抵抗の象徴であった。女性として、インディヘナとして、フェルナンド・ダキレマ(反乱の首謀者)とともにガルシア・モレノ政権に立ち向かい、自らの権利を要求した偉大なリーダーの1人だった。マヌエラ・レオンは激しく、しかも冷静に戦った。しかし、反乱が鎮静されるや1872年1月8日に、いの一番に銃殺されたと記されている。

フェルナンド・ダキレマは1845年チンボラソ県リオバンバ郡カチャ村ヤルキエスで生まれた。十分の一という税の取立てや公共事業への強制労働に対し、数千人のインディアナとともに立ち上がった。ダキレマ25歳、インカ帝国の名誉と誇りを取り戻すべく王位の称号を得て、蜂起を扇動した。その内容は、歴史家カルロス・オルチスがフリオ・トバルの調査やその他の資料に基づき書いた「チンボラソの百人」に記録されている。

  

   報道記事(左上:当時の女性衣装        リオバンバ市街から見渡すカチャ山

右上:ダキレマ 右中:カチャ池 右下:カチャ山)

インディヘナの蜂起は1871年12月18日午後、道路建設のための強制労働を指揮した3人の政府役人を処刑したことからヤルキエスで始まった。インディヘナ反乱軍はカチャ山に集結し、政府に対し、最初の要求文書を突きつけた。その蜂起には10人以上の命か懸かっていた。12月19日に、チンボラソ県知事ラファエル・ラレアは鎮圧のためヤルキエスに50人の兵を送り込んだが、最初の対決で1人の犠牲者を出し、多勢の決起の前に成す術も無く退散した。その間にインディヘナの過激派はバルバネラの山頂を占拠し、12月21日、リオバンバ郡のリクトやシカルパ村と合流する。ガルシア・モレノ大統領はチンボラソ県に臨時政府を置き、1872年3月13日まで指揮を取った。しかし反乱軍はリオバンバ郡プニン村まで前進し、マヌエラ・レオンの指揮の下に14の家屋を焼き払った。この行動は12月24日まで続くが、キトから政府の援軍が到着し、1872年1月3日にはその地域は奪還される。フェルナンド・ダキレマはチャカ村で戦士を手渡し署名し、反乱軍を解放した。

即座に反乱軍に対する裁判が始まり、首謀者の解明に当たった。マヌエラ・レオンは1月8日、銃殺刑に処された。1月の初めに反乱の首謀者と加担者に対し裁判が始まり、3月26日には戦争審議会は満場一致でフェルナンド・ダキレマに死刑の判決を下す。4月8日ダキレマはヤルキエス広場で銃殺刑に処せられた。保管文書は、皮肉を込めてキリストの十字架のようだったと明かしている。「王の尊称を受け、1871年の反乱の第1の首謀者だったとして処刑された人」、フェルナンド・ダキレマのことである。

マヌエラ・レオンはオルチス・アレジャノの調査によると、リオバンバ郡プニン村で1840年ごろ生また。マヌエラは1971年12月21日にダキレマの蜂起に共感し、プニン村の過激な14家族とともに参加した。民族学者マルセラ・コスタレスの書いた「宇宙の使者」の中で、「ダキレマによるインディヘナの反乱が1871年に始まったことを興奮と熱狂で受け止め、同村で同年代のフリアナ・パグアイと決起の声を上げた」と書かれている。血気盛んな年齢と国道建設の強制労働、毎日の屈辱から、「ウト」というパシのクループに加わった。

マヌエラは激しく政府軍に立ち向かい、隊長ミゲル・ヴァジェホ中尉を殺害する。敵軍の兵士の目をくり貫いたとも語っている。しかし、勝利の歓喜は長くは続かず、やがて指導者は捕らえられる。戦争審議会は反逆者を裁き、死刑を宣告する。マヌエラはフリアナ・パグアイとともに処刑された。関係文書にはマヌエラ(女性名)ではなくマヌエル(男性名)・レオンと書き換えられている。

更に、マルセラ・コスタレスの書いた「マヌエラ・レオン・サンガイ、悪魔のインディヘナ」の中に、「白人の血を飲み、裏切り者の目をくり貫き、臆病者の肉を貪り、敗北した村の復興のため卑怯者や服従者に戦いを挑んだ。私は失うものは何もない。自由だ。私はプーマだ。宇宙に大異変を呼び起こす彗星だ。栄光と敗北の女」と記されている。インカ帝国では、蛇は前世(地下)、プーマは現世(地上)、コンドルは来世(天上)の象徴とされている。マヌエラは自らをプーマと称し、現世をプーマの如きパワーで大異変を起こそうと駆け抜けた女性であった。

また、ガルシア・モレノ大統領の1872年8月大会の演説で「1871年末にチンボラソ県で、インディヘナによる白人に対する反乱があった。それは復習と野望、残忍さを持った激しい抵抗だった。しかしそれは無謀な戦いだった」と述べている。しかし、その後115年の歳月を経て1986年にCONAIE(エクアドル先住民連盟)が組織され、政治を左右する力を持つまでに至った。現チンボラソ県知事クリカマはインディヘナ出身であり、現大統領コレアもインディヘナの血を引く。ダキレマやマヌエラの反乱は決して無謀な戦いではなかった。

リオバンバ市街から南の方角にカチャ山が見渡せる。フェルナンド・ダキレマら反乱軍が集結したカチャ山、ダキレマが産湯を使い、戦いの汗を流したカチャ池をいつか訪ねてみたいと思う。

 

平成22年1月14日

須郷隆雄