エクアドル便り81号

友をたずねて三千里

(ロサリオーラファエラーブエノスアイレス)

 

朝10時、ESILの仲間たちの見送りを受け、ビジャマリアからロサリオに向かった。穀倉地帯をひたすら東へと進む。一面の大豆畑だ。かつてはトウモロコシや小麦、牧草地だった。中国への輸出が増え、大豆への転換が進んだようだ。大豆成金という言葉も生まれている。午後2時、ロサリオに到着した。ターミナルで青井さんが出迎えている姿が見えた。5年ぶりの懐かしい再会だ。

青井宅の真下にパラナ川が悠然と流れている。ブエノスアイレスで大河ラプラタ川と合流する。上流のコリエンテスで豪雨があったとのことで、水かさが増していた。水没している家屋も見受けられる。ロサリオは海運の中心都市で、アルゼンチンの工業回廊の一角をなす。「母をたずねて三千里」のマルコ少年もここからコルドバを経てツクマンに向かった。今でも多くの若者の心を捉えてやまないチェ・ゲバラの生地でもある。幼少の頃、喘息持ちだったチェ・ゲバラは、コルドバ郊外の避暑地アルタ・グラシアで青年期を過ごしている。その住居はゲバラ博物館として保存されている。銃殺を躊躇する兵士に向かって放った最後の言葉は、「落ち着け、そしてよく狙え、お前はこれから1人の人間を殺すのだ」であった。

青井さんが中華屋さんから取り寄せてくれた数々の中華料理を頂きながら話が弾む。政治経済、歴史、文学、音楽に至るまで、ありとあらゆるジャンルをとめどなく話す。外に散歩に出ることもなく、部屋の中でビールを飲みながら夜中12時まで永遠と話しまくっていた。知識の豊富さ、教養の深さに感心させられる。青井さんは71歳を迎えられたという。食事にも健康にも注意されているようだ。毎日往復1時間歩き、1万歩を心掛けている。趣味のテニスは、最近はご無沙汰とのことだった。九州男児である。「男児厨房に入らず」ということか。料理は苦手のようだ。「おとなのねこまんま」4か条なるものがある。第1条、ルール無用、おとなの特権「ねこまんま」。第2条、分量適当、世界最速2工程。第3条、お財布と地球に優しい。第4条、楽しい初体験、驚きの新発見。以上が4か条だ。しかし、「ねこまんま4か条」を日本食事文化基本法として制定すべしと考えている私の食生活よりは数段上である。この3月でSV生活も最終を向かえられるという。「また元気に戻ってきたのか、家族は喜ばないよ」と仲間たちからは手厳しい歓迎を受けると言う。良い仲間を持って幸せだ。今後如何に生きるか。大きな課題である。是非ご教授をお願いしたいと思う。

  

            青井さんの見送り                       ブエノスの仲間たち

翌朝、青井さんの見送りを受け、小雨煙るロサリオを9時20分ラファエラへと向かった。穀倉地帯を北へとゆっくり進む。鉄道駅カニャダ・ロスキンで暫く停車する。レンガ造りのアンティークな可愛い駅だ。線路に出てみた。妙なおじさんがポスターを手にやってきて、「写真を撮れ」と言う。何やら抽選会の商品ポスターのようだ。やけに馴れ馴れしいオヤジだ。駅舎の中は喫茶室になっていた。

再び豊穣なパンパを北へと向かう。終点ラファエラへ1時半に到着した。村野さんの出迎えを受ける。軽い昼食を済ませ、初対面の挨拶をする。一見強面に見えた村野さんだが、話をするにつれて、燻し銀のような味わいのある人間味を感じた。中心街に向かう。綺麗な町だ。リオバンバに良く似ている。かつて何度か来たことがある。屋上から市内を展望する。ぐるりと緑の地平線だ。駒ヶ根の同期生福井さんのアパートがひときわ大きく聳えていた。市内を散策する。カテドラルとサン・マルティン像とアルゼンチン国旗のアングルがお気に入りとか。さすがに絵心がある。

午後8時、待ち合わせのピザ屋に向かう。若々しい福井さんが待っていた。少し額が後退したようにも見える。酔いとともに話も佳境に入る。隣は可愛らしい高校生らしき女生徒4人組だ。夜になっても暑さは収まらない。「朝から立ちんぼがいる」という話から、話題はあらぬ方向に展開していった。女3人寄れば「姦しい」というが、男3人寄れば「エロ話」ということか。暑さのなせる業だ。中南米に3Cというのがある。コスタリカ、コロンビア、チリだそうだ。美人が多いとのことだ。ちょっと首を傾げてしまう。ひいき目だがアルゼンチンが1番と思う。ほろ酔い加減で深夜のラファエラを村野宅へと戻った。

翌早朝7時40分のバスで、村野さんとブエノスアイレスに向かった。相当なスピードが出ていると思うが、広大なパンパの中、スピード感はない。時折雷光と雷鳴が轟く。パレルモ公園を経て午後4時ターミナルに到着した。かつて良く使用したグランホテル・ブエノスアイレスに向かう。タクシーが反対方向へ走る。ブエノスのタクシーはどうも信用できない。

サン・マルティン広場に行ってみた。マルビナス戦没者記念碑前で衛兵に敬礼すると「グラシアス」の返事が返ってきた。515名の名が刻まれていた。フロリダ通りは相変わらず人通りが多い。老夫婦が「ゴッド・ファーザー」を演奏していた。ブエノスアイレスも以前とあまり変わっていない。少し街が綺麗になったような気もする。ホテルへ戻ると福井ご夫妻から「6時にロビーで待つ」と伝言があった。

佐藤調整員と中川さんは初対面だ。福井ご夫妻とは10日ぶりの再会となった。佐藤さんの紹介で韓国料理店に向かう。時々昼食に日本大使も見えるというなかなか小奇麗な美味しい店だった。時の人「小沢一郎」が話題になっていた。「友をたずねて三千里」の旅も終わろうとしている。

翌朝、福井ご夫妻と村野さんとともに電車でベルグラーノへ向かう。なかなかややこしい券売機だ。つり銭が出てこない。つり銭のないように入れないと発券されない。この機械は引き算が出来ないようだ。電車は以前より大分綺麗になっていた。中華街で日本食材を買うのに付き合い、海鮮ラーメンと餃子に舌鼓を打つ。しかし麺はスパゲティー風で、今一だった。

ホテルに戻り、レミス(ハイヤー)を呼んでもらう。料金を聞くと120ペソとのこと。エセイサからアエロ・パルケまでとはいえ、あの雲助タクシーの3分の1だ。レミスの運転手はネクタイを締めた中年紳士だった。福井ご夫妻と村野さんに別れを告げ、空港に向かう。午後6時、多くの仲間たちとの再会の感動を胸にアルゼンチンを飛び立った。西の雲間に真っ赤な太陽が、熱い想いを込めて沈んでいった。リマを経てキトに着いたのは深夜12時を回っていた。

マルコ少年に倣った「友をたずねて三千里」と題する思い出と郷愁の12日間の旅は終わった。大和物語に「この水あつ湯に滾りぬれば」というくだりがあるが、忘れかけていた熱い滾りが友との再会によって呼び起こされたような気がする。

 

平成22年2月1日

須郷隆雄