エクアドル便り93号

カリブの赤い国(チェ・ゲバラ廟)

 

 ホテルのロビーに出ているとタクシーが迎えに来た。30分前だ。カリブ海の真珠バラデロに別れを告げ、サンタ・クララに向かう。チェ・ゲバラの主戦場だ。

一直線の道を快調に飛ばす。次第に内陸へと入って行く。広大な平地だ。石油採掘機は見当たらない。石油はハバナからマタンサスまでの海岸沿いでのみ採掘されている。サトウキビ畑が永遠と続く。「ざわわざわわざわわ〜、サトウキビ畑の〜」と加藤登紀子の歌声が聞こえてくるようだ。時々製糖工場の煙突が見える。コロン村を通過する。人口2万人、運転手の故郷のようだ。ペットボトルの水を2本買う。1兌換ペソだ、安い。ホテルでは1本、1.5兌換ペソだった。キューバは水が良いと言われる。「ホテルの水道水も飲める」と運転手は言う。地平線まで延びた一直線の道をひたすら東へと進む。緑の大地と青い空、白い雲だけの世界だ。サント・ドミンゴを通過する。ゲバラの肖像画が多くなる。水田があった。サンタ・クララに入る。ゲバラとの再会に心がときめく。

タクシーを降りると早速若者が話しかけてくる。ホテルは中央公園の前だ。エレベーターは手動、時代を感じさせる。呼び鈴も故障で、ノックして知らせる。エレベーター係り無しでは使用できない。迷路のような部屋だ。火災があったら逃げ場が無い。非常口をしっかり確認する。昼食を取り、前の公園に出てみた。ゴシックの建物に囲まれた賑やかな公園だった。またも、話しかけてくる。ハバナで経験済みだ。そう簡単には騙されない。一通り町の雰囲気を確認し、チェ・ゲバラ廟に向かった。

  

    チェ・ゲバラ廟                子供を抱くゲバラ

広大な敷地だ。銃を持ち、戦闘服姿のゲバラが立っていた。20mほどの巨大な像だ。台座に「Hasta La Victoria Siempre(勝利の日まで)」と記されていた。ゲバラは今も戦い続けている。世界革命という見果てぬ夢に向かって、ドン・キホーテのように。しかし心なしか、年老いたようにも見えた。生きていれば82歳だ。チェの頭上に鷲のような、嘴の赤いピニョサが2羽舞っていた。向かいの広場に「チェのようにありたい」「国民の星だ」という大きな看板が掲げられていた。ゲバラとの再会を懐かしみ、念入りに広場を歩き、ゲバラを仰いでいた。1997年7月、ゲバラ没後ちょうど30年、ゲバラの埋葬に立ち会った証言により、その遺骨はボリビアの空港の滑走路の下から見つかった。チェの遺骨は同年10月17日、ここサンタ・クララのチェ・ゲバラ廟に納められた。「ビバ・チェ、ビバ・チェ」の大歓声で迎えられたという。生地アルゼンチンを偲び、ジャカランダの木が植えられていた。

熱い。足を棒にしながら、もう1つの目的地、鉄道爆破記念館に向かった。線路脇にむき出しの貨車と爆破記念碑が立っていた。貨車の中が記念館だ。1958年12月29日、第2軍を率いるゲバラはサンタ・クララに突入した。多数の市民の加勢を得てここを制圧し、ハバナへの道筋を開いた。世に言う「サンタ・クララの戦い」である。

「他にはゲバラの記念碑は無いのか」と聞くと「まだある」と言う。道を歩いていると、その記念碑まで案内してくれた。礼を言って別れようとすると「そのボールペンをくれ」と言う。何とも早、ただでは動かない。7月26日記念館の前に、子供を抱いたゲバラの像があった。足元に花束が置かれていた。チェの言葉「私の夢には国境は無い」という文字があった。記念館の中にカストロの「部隊は、議論や調査に基づく戦い、危険、犠牲、そして目標、理念、戦略を共有し続ける」という言葉が掲示されていた。町中がゲバラだ。

銀座通りらしき通りを歩いて戻った。配給所のような所で米や食料が売られていた。行列をなしている。物は豊富とはいえないが、それほどの貧しさは感じない。それにしても熱い。カフェテリアでビールとポテトフライを注文する。ビールはコク・キレの無いブカネロをやめ、クリスタルにした。「日本人か」と目を細くする仕草をする。目は大きいほうと思っていたが、彼らから見れば小さいのだろう。

夕食後、再び前の公園に出てみた。夕涼みで大変な人だかりだ。朧な満月に近い月が懸かっていた。心地よい涼しさだ。静かな音楽もかかっている。黒人系が多いが、白人もいる。朧月を見ながら今日1日を回想していた。するとやはり来た。「1ヶ月の給料は13ドル。このズボンは25ドル、この靴は20ドル。ズボンを買うのに飲まず喰わずで、2ヶ月働かねばならない」と。ちょっと危ない。しかし白人系でタバコも吸っている。勧めたりもする。危険は感じなかったが、それとなく別れた。扱いもうまくなってきた。

チェ・ゲバラの町サンタ・クララの1日も、慌しく終わろうとしていた。

 

平成22年5月24日

須郷隆雄