エクアドル便り94号

カリブの赤い国(革命はここから始まった)

 

 朝7時半、ホテル前の公園からキューバ国歌「バヤモ賛歌」が聞こえてきた。ロビーの時計に、キューバとドイツと日本の時刻が刻まれていた。合っているのはキューバ時刻だけだ。正確な日本時間を知らせたが、直す気が無い。タクシーが故障で15分遅れるとの連絡があった。しかし1時間経っても来ない。ハバナのガビオタ・ツールに連絡する。11時に到着すると連絡があった。11時、まだ来ない。カウンターの近くにガビオタ・ツールの机がある。その事務員レイシと話す。何度か連絡を取ってくれた。「キューバタクシー、車番5011、車種SKODA(チェコ製)、運転手ホセ・ガルシア」と知らせる。「内容はどうでもいい、来る時間が知りたいんだ」と言うと「解らない」と言う。「これがキューバのコストゥンブレ(習慣)か」と苛立ちをぶつけると、「コストゥンブレだ。ノ・アイ・オラリオ(時刻表は無い)」との返事、悪びれる様子も無い。困ったものだ。「キューバタクシーに電話すれば解るだろう」と言うと再度電話している。すぐにタクシーが来た。何とも要領の悪いレイシだ。これでも旅行代理店の事務員なのだ。日本人が異常なのか、キューバが世界の常識なのか解らないが、世界を歩くには「忍耐と寛容」が必要だ。3時間後れの12時、レイシと諦め笑顔で別れ、タクシーに乗り込んだ。

 感じのいい中年運転手だ。果てしなく平らな大地、一直線の道をサンティアゴ・デ・クーバへと走る。地の果てまで白い綿雲が続く。雲の中に飲み込まれるのではないかと錯覚する。牧場が続く。チーズ売りが道端に立っている。マンゴー畑が続く。マンゴー売りが立っている。パイナップル畑が続く。パイナップル売りが立っている。変わりない風景を時速120kmで疾走する。こんな田舎に、はっとするほどの美人を見かけることがある。「カストロの後継者はいないのか」と聞くと、「革命を経験してない連中は駄目だ」と。「カストロの息子はどうなんだ」と言うと、「出来が悪くてこれも駄目だ。キューバの将来は危うい」と嘆く。途中ガソリンスタンドにあるピザ屋で、運転手ホセと遅い昼食を取った。インスタントではあったが、なかなか美味しい。再び東へと疾走する。ホセが色々な話をしてくれる。野球や食い物の話になると俄然話がはずむ。「イチローとマツザカはいい選手だ」「日本が1番、キューバは2番だ」と持ち上げる。「韓国が3番だろう」と言うと「野球は日本とキューバだ。韓国は別だ」と。野球はキューバの国技である。「サンティアゴ・デ・クーバはランゴスタ(ロブスター)が美味しい。ロン(ラム酒)も飲むといい」と教える。マエストラ山脈の山並みが見えてくる。グランマ州の州都バジャモに入る。給油所でガソリンを補給する。1リットル1.10CUC(兌換ペソ)だ。ディーゼルは0.70CUC、決して安くない。むしろ高い。サンティアゴ・デ・クーバまで127kmだ。

 マエストラの山並みを望み、次第に丘陵地に変わる。道も蛇行してくる。バナナ畑、みかん畑が続く。線路を何度か横切る。しかし、列車が走っているのを見かけない。山道に入る。日が落ちていく。キューバと雖も夕暮れ時は哀愁を感じる。「月は東に日は西に」十三夜の月が昇り始めた。彼方にサンティアゴ・デ・クーバの町の灯が見えてくる。9時、ホテルに到着した。カテドラル前にある大理石造りの凄いホテルだ。部屋も上等、1人で泊まるにはもったいない。ロビー続きのバーでランゴスタを注文した。エビを無数に串刺しにしたのが出てきた。ランゴスタではない。どうしたことか黒人と白人のペアーが多い。1914年創業と記されていた。バンドの演奏を聴きながら9時間の旅路の疲れを癒す。カテドラルの尖塔の上に懸かる十三夜の月が、古都サンティアゴ・デ・クーバを照らしていた。

  

         モロ要塞                  7月26日運動メンバー82人

 カテドラルのあるセスペデス公園を見下ろしながらゆっくりと朝食を取っていた。多少疲れも出てきているようだ。黒人が多い。古都ということもあるのだろうか。色の違いこそあれ、黒人と白人は骨格が似ている。東洋系はどう見ても同じ人種とは思えない。案内係のミリアムおばさんから観光ルートを教えてもらう。モロ要塞、ディエゴ・ベラスケス博物館、カルナバル博物館、歴史公園、モンカダ兵営博物館を薦める。モンカダ兵営が最大の目的だ。「人口60万、ハバナに遷都する前の首都で、カストロもここで生まれ、ホセ・マルティはここで死んだ」と懇切丁寧に説明してくれた。

 サンティアゴ・デ・クーバ湾を見下ろすモロ要塞に向かった。同名のモロ要塞はハバナ湾の入り口にもある。世界遺産だ。キューバには7つの文化遺産と2つの自然遺産、合わせて9つの世界遺産がある。まさに要塞だ。眺めも素晴らしい。カストロらが上陸したコロラダ海岸も遠望できる。案内係りはいるが、殆ど仕事をする気が無い。葉巻や土産品を闇売りしている。牢獄や教会もあった。カリブ海や市街地が一望できる。フランス、イギリス、オランダなどの海賊や軍の攻撃を防ぐために造られた。「兵どもが夢のあと」である。

 ディエゴ・ベラスケス博物館はベラスケスの個人宅だった。その後ホテルになり、今は博物館だ。世界各地から取り寄せたという豪華な家具、調度品が展示されていた。キューバのマホガニーがふんだんに使われていた。「日本の女性はセクシーだ」と話しかける。「キューバの女性のほうがおっぱいが大きくてセクシーだ」と応えると、「日本の女性はおっぱいが小さいからセクシーだ」と言う。見方も色々だ。巨大なおっぱいとお尻に囲まれているとそういうものかと感心する。しかし博物館で話す内容ではない。

 ホテルに戻り、昼食に「ランゴスタが食べたい。レストランを紹介してくれ」と頼むと案内してくれた。看板は無い、個人宅のようだ。不安を感じたが、悪そうな顔つきはしていない。ロン(ラム酒)を少し飲む。巨大なランゴスタが出てきた。絶品だ。美味しい。女性の2人連れが不安げに入ってきた。聞くと「イスラエルからだ」と言う。先客がいて安心したようだ。

 カルナバル博物館からアギレラ通りを経て、リベルタドール大通り沿いの歴史公園に出た。ホセ・マルティのモニュメントの前で学校帰りの子供たちと一緒に写真を撮る。アベル・サンタマリア病院博物館の木陰で若者たちがギターの練習をしていた。大通りを挟んでモンカダ兵営博物館があった。

 モンカダ兵営博物館入り口正面にホセ・マルティのレリーフと共に「伝道師たちはこの100年に、死に向かって行進したように見える(1853−1953)」と記されていた。フィデル・カストロの「モンカダ兵営は拷問と虐殺の工場に変わり、彼らの軍服は屠殺者の前掛けに変わった」という言葉と共に、目を覆うばかりの写真と拷問器具が展示されていた。ホセ・マルティの言葉「La Patria es Ara y no Pedestal(祖国は祭壇であり台座ではない)」もあった。1953年7月26日、フィデルは弟のラウル(現国家評議会議長)ら120名の同志と共にモンカダ兵営を襲撃する。捕らえられ、その後メキシコに亡命した。1956年12月にゲバラら82名の「7月26日運動」の同志と共にヨット「グラマン号」でコロラダ海岸に上陸し、1959年1月革命軍が勝利するまでの経緯が展示されていた。グラマン号も展示されていた。ゲバラが考案したという火炎瓶もあった。キューバ革命の原動力が何であったのか解ったような気がする。まさに革命はここサンティアゴ・デ・クーバから始まったのである。

 熱い。日干しになりそうだ。ホテルのカフェで水を一気飲み、ミントの葉を入れたラム酒カクテル「モヒート」で酩酊し、ロビーでうたた寝をしていた。ミリアムおばさんの声で目を覚まし、手を振って別れた。迎えのタクシーで夕暮れのアントニオ・マセオ空港へ向かった。10時半、ハバナへと飛び立つ。14夜の月が上空に輝いていた。深夜12時、ハバナに到着。迎えのタクシーで同じベダドホテルに戻った。

ハバナからバラデロ、サンタ・クララ、そしてサンティアゴ・デ・クーバまでの1000kmに及ぶタクシーでのキューバ横断だった。革命のルートを踏破した満足感を抱いて眠りに就いた。

 

  平成22年5月26日

須郷隆雄