エクアドル便り95号
カリブの赤い国(独立の父ホセ・マルティ)
重い目をこすりながら朝食を済ませる。ガビオタ・ツールと交渉した市内ツアーが迎えに来るかどうか半信半疑だった。9時にロビーに下りてみた。ツアーガイドのオネリオが時間厳守で迎えに来た。約束は守られた。「英語、スペイン語」と聞くので、「スペイン語」と応える。マイクロバスに運転手それにオネリオ、乗客は私だけだ。「他には客はいないのか」と聞くと、「いない。特別に用意した」と言う。ガイドとのマンツーマンの市内観光になった。
ホセ・マルティ記念碑 ハバナ市街
キューバ革命の象徴、広大な革命広場に降りた。ガイドブックに紹介されているとおりだ。中央にホセ・マルティの肖像と140mの天を突くモニュメント。正面の左手にチェ・ゲバラ、右手にカミロ・シエンフエゴスのレリーフがあった。キューバ革命のbQとbRだ。フィデル・カストロのレリーフは無い。ホセ・マルティ博物館に入る。念を入れて見ているとオネリオが迎えに来た。まだ140mの展望台に登ってない。大急ぎで登る。360度のハバナ市街をこれも念入りに目に焼き付けていると、またもオネリオが迎えに来た。もう待ちきれないようだ。
ホセ・マルティは1853年1月28日ハバナ生まれの独立思想家であり、文学者でもあった。1892年キューバ革命党を組織し、1895年4月11日マキシモ・ゴメスら同志と共にサンティアゴ・デ・クーバ東方のカハバボ海岸から上陸し戦闘を繰り広げるが、同年5月19日被弾し独立を見ることなく生涯を閉じた。サンティアゴ・デ・クーバのサンタ・エフィヘニア墓地に埋葬されている。建国の英雄と称えられている。カストロやゲバラ、ニカラグアのアウグスト・サンティーノらに多大な影響を与えた。ホセ・マルティの生誕100周年の1953年に蜂起したモンカダ兵営襲撃事件の際に、「首謀者は誰か」との問いにカストロは「ホセ・マルティである」と答えている。代表作に「我らのアメリカ」がある。もちろんアメリカとはラテン・アメリカのことだ。「人生の打撃にくじけて地に寝そべっている人よりも、諦めずに人生に立ち向かっている人のほうが遥かに美しい」という言葉を残している。
革命広場で時間を取りすぎた。国会議事堂やグランマ記念館は既に見ているので通過した。バスターミナルを通過する時、「バスは中国製で品質が悪い。以前はロシア製だったが、日本製は故障がなくていい」と言う。喉が渇いてきた。ペットボトルの水を3本買い、それを互いに飲みながら支倉常長に会いに行く。ハバナ湾を挟んでモロ要塞やカーサブランカの見える一等地に、日本を指差し立っていた。支倉常長は伊達政宗の命を受け、遣欧使節団180人を連れてローマに向かう途中、1614年にこの地を踏んだ。日本人観光客目当ての老人がたむろしていた。小さいながらも小奇麗な中華街に寄る。
オネリオに「これからもアメリカとは国交を持たないのか」と聞くと、「近い国だし、将来的には仲良くしたい。日本に仲介の労を取って欲しい」と意外な答えが帰ってきた。ソ連崩壊後、ロシアとの関係は薄れている。変わりに中国との交流は深まり、中国人が増えている。しかし、余り好感は持っていないようだ。「日本人がもっと来て欲しい。しかし日本は遠いな〜」とも。「また来てくれ」との硬い握手で別れた。いい締めくくりになった。「終わり良ければ全て良し」。いい思い出で帰れそうだ。
最高級のキューバ国立ホテルのカフェからカリブ海を見下ろしていた。各国首脳や芸能人訪問の写真が飾られていた。暫し風に吹かれ、カリブとの別れを惜しんでいた。6時、迎えのタクシーでホセ・マルティ空港に向かう。9時、キューバに別れを告げ、色々な想いを乗せ飛び立った。暗黒の空間に15夜の月が遥かカリブの海を黒く照らしている。この世とは思えない不思議な世界を醸し出していた。モンカダ兵営で見た目を覆うばかりの拷問と虐殺の光景が脳裏を巡った。エクアドル時間深夜12時、キト空港に到着した。
「カリブの赤い国」キューバ、「カリブ海の真珠」キューバ。ホセ・マルティやフィデル・カストロ、チェ・ゲバラの革命の道を辿る8日間の旅は終わった。何か熱いものが心の中に残ったような気がする。
平成22年5月27日
須郷隆雄