エクアドル便り96号

カリブの赤い国(フィデルとチェ)

 

フィデル・カストロとエルネスト・チェ・ゲバラはキューバ革命の立役者だ。フィデルあってのチェであり、チェあってのフィデルであったと思うが、早く亡くなったチェの人気は衰えることを知らない。

 チェは1928年6月14日、アルゼンチンのロサリオで海運業を営む裕福な家庭に生まれた。ブエノス・アイレス大学医学部卒の医師である。在学中、おんぼろバイクで南米を放浪し、貧富格差に社会の矛盾を感じ、どう生きるべきか悩む。「当初、医者としての成功を夢見ていた。しかしこの旅を通じて考えが変わった。飢えや貧困を救うには注射だけでは不十分だ。病人の治療より病人を出さない社会が必要だ」との考えに至る。卒業後医師としてペルーの診療所に向かう途中、グアテマラの内戦に遭遇する。グアテマラ政府軍の1員として戦うが、敗北しメキシコに脱出する。そこでメキシコに亡命していたフィデルと運命的な出会いをする。

 フィデルはスペインのガルシア人移民の裕福な農場主の息子として1926年8月13日、サンティアゴ・デ・クーバの近郊で生まれた。野球に熱中し、最優秀高校スポーツ選手にも選ばれた。ハバナ大学で法律を修め弁護士となる。その後武装勢力を組織し、1953年7月26日120人の同志と共にサンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃する。80人以上が死に、逮捕投獄される。獄中ホセ・マルティを愛読し、「歴史は私に無罪を宣告するだろう」を発刊する。メキシコへ亡命中にチェと宿命的な出会いをする。

  

 フィデル・カストロ           エルネスト・チェ・ゲバラ

 歴史が2人の出会いを設定したかのようだ。この時点で既にキューバ革命は成ったと言えるかも知れない。当時のキューバはアメリカの属国であり。多くの利権はアメリカ資本に握られていた。ハバナは無法の歓楽街と化し、バチスタ政権はアメリカ追随で巨額の黒い金が動いていた。そのバチスタ政権打倒のため1956年12月2日ヨット「グラマン号」に乗り、革命運動組織「7月26日運動」のメンバー82人でサンティアゴ・デ・クーバ西方のコロラダ海岸に上陸する。時にフィデル30歳、チェ28歳だった。しかし事前に情報が漏れ、バチスタ政府軍の攻撃にあい、生き残ったのは18人だけだった。普通なら絶望のどん底にある筈が、カストロは「18人も生き残った。これでバチスタ政権の命運は尽きたも同然だ」と叫んだと言う。チェはカストロが悲嘆の余り気が狂ったのではないかと真剣に思ったそうだ。しかしフィデルには勝算があった。戦闘が始まれば必ず支持者が増えると確信していた。マエストラ山中に逃げ込みゲリラ戦を展開した。フィデルの弟ラウルやカミロ・シエンフエゴスも含まれていた。政府軍の士気は低く、連戦連勝を重ね支持を得て行った。第2軍を率いるチェの世にいう「サンタ・クララの戦い」で決定的な勝利を収め、バチスタ将軍は国外に逃亡した。1959年1月1日、民衆の大歓声に迎えられハバナを指揮下に置きキューバ革命は成就した。

 国家評議会議長にフィデル32歳、国立銀行総裁にチェ30歳の若き政権が誕生した。新生キューバの建設に取り掛かりる。教育の無償化、医療の無償化、土地の国有化、企業の国営化を進め、独自の国家づくりを果敢に実行した。キューバ革命で煮え湯を飲まされたのが隣国アメリカだ。カストロ政権打倒に暗躍する破壊工作にフィデルは堪忍袋の緒を切らし、ついにソ連の協力を得て核武装に踏み切ろうとした。いわゆる「キューバ危機」である。フィデルを悪魔のように言うアメリカだが、個人崇拝を排除し肖像は一切作らせていない。アメリカ訪問時、「あなたは何時も防弾チョッキを着ていると聞いているが」との問いに、「着ていないよ。モラルというチョッキは着ているがね。人は死ぬ時は死ぬんだよ。それが運命というものだ」と答えている。

 37歳になったチェはキューバでの自分の役割は終わったと判断し、フィデルに別れを告げ、再びアフリカのコンゴ、南米ボリビアへと過酷なゲリラ生活に帰っていった。一通の手紙を残して。「フィデル、僕は今この瞬間多くのことを思い出している。初めて君と出会った時のこと、革命戦争に誘われたこと、準備期間のあの緊張の日々の全てを。死んだ時は誰に連絡するかと聞かれた時、死の現実性を突きつけられ慄然とした。後にそれが真実だと知った。真の革命であれば、勝利か死しかないのだ。僕はキューバ革命で自分に課せられた義務を一部果たしたと思う。だから僕は君に、同志に、そして君の国民たちに別れを告げる。僕は党指導部の地位を正式に放棄する。大臣の地位も、司令官の地位も、キューバの市民権も。今、世界の他の国々が僕のささやかな助力を求めている。君はキューバの責任者だから出来ないが、僕には出来る。別れの時が来たのだ。もし僕が異国の空の下で死を迎えても、最後の想いはキューバ人民に向かうだろう。とりわけ君に。僕は新しい戦場に、君が教えてくれた信念、人々の革命精神を携えて行こう。帝国主義があるところなら何処へでも戦うために。永遠の勝利まで。革命か、死か」

 歴史上には様々な英雄がいる。圧制者を倒す過程では目を見張るものの、権力を手中にすると傲慢な支配者として民衆を抑圧し、保身にいそしむことが少なくない。しかしチェは違った。権力を手にした革命家が、自分の地位を捨て再び苦難の中に身を投じる例は殆ど聞かない。チェが貫き通した「心の声に忠実に生きる」姿勢に共鳴する人は多い。

 チェが好んだ作家は、幼少期はデュマ、学生時代はフロイト、ボードレール、パブロ・ネルーダ。ゲリラになってからはゲーテやセルバンテスを愛読したようだ。チェ自身そのドン・キホーテぶりを自覚していた。両親に送った手紙からそれが窺える。「もう一度、僕は足の下にロシナンテの肋骨を感じている。盾を携え再び旅を始める。もしかするとこれが最後かも知れない。僕は父母を心から愛している。ただ、どう表現したらいいのか解らなかった。僕を理解することは容易ではないかもしれないが、僕を信じて欲しい。芸術家のような喜びを持って完成を目指してきた意思が、なまってしまった足と疲れた肺を支えてくれるでしょう。時々思い出してください。強情な放蕩息子から大きな抱擁を送ります」。

南米にドン・キホーテが2人いる。言うまでも無く1人はチェ・ゲバラだ。もう1人はシモン・ボリバルではなかろうか。世界革命を目指したチェ、ラテンアメリカ統一を目指したシモン、共に「見果てぬ夢」に向かって駆け抜けていった。子供たちへの最後の手紙は「この手紙を読まねばならない時、お父さんは側にいられないでしょう。世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、痛みを感じることが出来るようになりなさい。これが最も美しい資質です。子供たちよ、何時もお父さんはお前たちに会いたいと思っている。でも今は会うことが出来ない。だから大きなキスと抱擁を送る」であった。親子の絆は例え革命家であろうとも、切っても切れないものなのだ。チェの口癖は「最も重要なことは権力を握ることではなく、握ったあとに何をするかを明らかにすることだ」であった。

 フィデルとチェの出会いが無かったらキューバ革命は成ったかどうかは解らない。しかし歴史が2人の出会いを設定し、キューバ革命を成就させ、2人の英雄を作り上げた。フィデルとチェは我々の心の中に永遠に生き続けるであろう。「Hasta la Victoria Siemple(勝利の日まで)」と共に。

平成22年5月28日

須郷隆雄