ビジャマリア情報18

2005.3.21

Villa Maria, Cordoba, Argentina

須郷 隆雄

 2月はまだバカンス、学校は夏休み中だ。休暇を利用し、アルゼンチンの北西部カタマルカにインカの遺跡を訪ね、旅行する。

 カタマルカ州は、人口30万人、州都カタマルカ市に半分の15万人が住む先住民族とスペインの風習が混在した町だ。

 ビジャマリアから夜行バスで8時間、潅木の原生林、耕作地はほとんどなく朝日に赤く輝くアンデスの山並みを見ながらカタマルカに到着する。ターミナルで、しばしコーヒーを飲みながらムード音楽を聴く。タクシーに乗り、ホテルでチェックイン、午後の市内観光を打ち合わせる。ロディオ村とビルヘン・デル・ヴァジェ(谷間の聖母)に行くことにする。しばしベッドでバスの疲れを癒す。

 小雨の降る中を車でタラ川をさかのぼる。川沿いにタラの木が群生している。タラの木が群生しているからタラ川、命名は簡単だ。とてもいい香りの木だ。アンデスの前哨戦とも思えるなだらかな緑の山並みが続く。いろは坂のような坂道を越えていくと別荘地ロディオ村だ。軽井沢の趣は多少あるが、単なる田舎町とそう変わりはない。しかし、地平線と赤膚の山を見続けた私にとって、ここは正に軽井沢。川あり、緑あり、なだらかな山並み、しかも緑の山、馬車も走っている。心が癒される。しかし毒蜘蛛が悠然と道路を歩いていた。帰りに谷間の聖母を見に行く。敬虔な信者が礼拝している。神とは縁のない格好で信者の冷たい視線を浴びながら、厚かましくも観光する。なぜ谷間の聖母なのか。カタマルカはアンデスの山に囲まれた盆地で、至る所にバジェ(バレー)の文字がある。盆地即ちカタマルカなのかも知れない。するとこれは谷間の聖母ではなく、カタマリカの聖母なのだろう。自分なりに納得した。

        

    サボテンの花               州道7号線

 翌朝6時にホテルを出発する。1人旅の女性と同行することになる。年のころ423といったところか。ブエノスアイレスで看護婦をしているとのこと。名前はパトリシア。楽しい旅になりそうだ。昨日とは打って変わって大平原、はるか彼方にアンデスの山並みが見える。車は130キロ、しかしあまりの広さに止まっているのかと錯覚してしまう。リオハ州に入ったところで、サボテンの原生林といったらいいのか、サボテンの林に遭遇する。サボテンの花は、鉢植えでは見たことがあるが、一面のサボテンの花。なんだか桃源郷に来たような錯覚を覚える。光るような白にしばし我を忘れる。我に返るとパトリシアの肩に私の手が、記念のツーショット。遠くにトルメンタ、嵐になるかもしれない。とにかく広い、地平線に向かって一直線に州道7号線が伸びている。一面砂漠状態だ。カタマルカはオリーブの産地でオリーブ油の工場が沢山ある。この砂漠状態をオリーブ林に変えたら、世界中に安くオリーブ油が供給できるだろうなと旅行者にあるまじき想像をしてしまう。それにしても水の管理が難しいだろうな。

 至る所、道路と川が交差している。橋はない。雨が降ると川が優先、しばし交通止め。雨が過ぎると川は干上がる、道路は元通り、交通遮断解除である。なんとアルゼンチン的、いや、なんと合理的なことか。そうこうしているうちに、インカ遺跡の里シンカルに到着。
        

      シンカル、インカ遺跡          歴史を語るオリーブの木

 博物館らしきところで全体像を確認して、ピラミッド風のところに登ってみる。それほど広い空間とは思えないが、なぜか心が和む。以前佐賀県の吉野ヶ里遺跡を訪ねたことがある。後ろは背振山、前は平野でその先は海。その雰囲気に似ているような気がした。インカにしても日本にしても、古代人は後ろが山で前が開けている、そんな地形を好んだのであろう。現代人である私がそこに立っても、心が安らぐのはやはりこの地形にあるような気がする。ここにはかつて4万人が住んでいたという。今や川らしき形跡はあるが水はない。多分当時は緑に覆われた豊かな土地であったのだろう。想像を巡らしているうちに、昨夜の疲れも手伝いうつらうつら。インディオは、スペイン人の侵入により太平の生活は破壊され、全てが虐殺されたという。そして今、わずかの金でその遺跡が守られている。なんという蹉跌か。

 夕暮れに染まる、はるか彼方のアンデスを見ながら一直線に伸びた州道をひたすらカタマルカに向かう。途中スペイン人が始めて植えたという500年にもなるオリーブの木を見る。先住民の足跡とアルゼンチンの歴史を物語る生き証人だ。思わずその幹に耳を当ててみたくなった

 ホテルに夜10時に到着。長い1日であった。道ずれのパトリシアと軽いキッスを交わし、旅人同士爽やかに別れた。

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