ビジャマリア情報31

2005.9.3

Villa Maria, Cordoba, Argentina

須郷 隆雄

 

 アルゼンチンには現在、日系移民家族が4万人ほど生活している。そのうち3万人が沖縄移民で、全体の約70%を占めている。

 アルゼンチンへの移民は、1908年に開始された大規模なブラジル移民の影響を受け、徐々に増えていったと言われている。沖縄からの戦後最初の移民はアルゼンチンに向かった33人だったという。アルゼンチンへの移民は大部分が単身か夫婦による自由移民で、職業も他国とは違い、洗濯業や花卉園芸業を中心とする都市型のものであった。当時はこの両職業が、全体の80%を占めていたそうだ。しかし、23世に世代が移るに従い、弁護士、医師を含め他分野での活躍が増えている。

   


   日系人家族                沖縄日系人の豪邸

 沖縄の移民の歴史は、1900(明治33)にハワイに旅立った26人が最初だという。日本本土からの移民に遅れること15年であったとのこと。移民誌によると沖縄から海外に移民した者は、15万人に及ぶといわれている。ハワイ、ブラジルが多く、アルゼンチンには7,000人であったそうだ。これだけ多くの移民を出した沖縄には、それなりの理由があると思う。14世紀から19世紀にかけての琉球王国、そして第二次大戦後のアメリカ統治、それに加えて生活の苦しさが人々を夢の海外へと導いたのであろう。

 しかし、夢の楽園といわれた移民地も、決して豊かなものではなかった。血と汗の塗炭の苦しみであったと聞く。過酷な移民地で生活を築きあげることが出来たのは、「故郷を忘れない思い」であった。この思いはやがて県人同士の絆を深め、いまや強固な沖縄県人会が組織されている。また、戦争によって想像を絶する苦しみの体験もしたようだ。母国、故郷と戦わねばならない悲しみ、移民国への忠誠、さらに財産の没収と収容所送りなど、話を聞くと涙が溢れるばかりだ。米国では、最も危険なヨーロッパ最前線に、日系人だけで組織された「第100歩兵隊」が送られた。彼らは米国への忠誠の証と家族の身の安全を願って、果敢に戦った。今でもその部隊の活躍は米国民の語り草となっている。唯一の地上戦となった沖縄では、沖縄系2世の兵士が通訳として活躍し、1.000名余りの集団自決が免れたとも言われている。戦争で焼け野原になった沖縄にいち早く支援の手を差し伸べたのは、なんと故郷を離れて暮らす移民の人々であった。「血の繋がる郷里の人々を救え」を合言葉に、ハワイをはじめ北米、南米で、戦災地沖縄への救援運動が起こったとのことだ。

 「出入国管理及び難民認定法」の改正以後、南米から日本へ出稼ぎに行く日系人が増えている。既に2世、3世、4世の時代に入っており、日本の風土や習慣を理解しないまま、また、日本語も殆ど話せない状態で渡来することから、情況は違うにしても、最初の移民者と同様の当惑と苦しみを味わっていると聞く。今こそ先達の移民者の労苦に報い、時代を超えてその末裔に恩返しをする責務が日本にはあるような気がする。

   

   入植当時                   農作業

 日本にいると移民のことは余り話題にならないが、海外で生活する者にとって日本はかけがえの無い祖国であり、日本人以上に日本を意識しているのかもしれない。アルゼンチンでは、日本人は信頼と尊敬の念で迎えられている。この基盤を作ったのは言うまでも無く彼ら移民者の功績であり、日本人としての誇りであったと思う。今一度、海外で活躍する日系移民者に我々日本人は目を向け、その生活を理解し、汗と涙で築きあげた「信頼」という財産に拍手喝采を送りたい。


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