ビジャマリア情報35
2005.12.10
Villa Maria, Cordoba, Argentina
須郷 隆雄
いよいよ帰国の日だ。朝5時起床。準備万端。ホテルに鍵を帰し、コルドバ空港に向かう。荷物は既に別便で送ってある。手荷物はひとつだ。しかし27キロ、制限重量を大分オーバーしている。ブエノス・アイレスへ。コルドバ丘陵が彼方に見える。綿雲のような春の雲が浮かんでいる。眼下にコルドバ市街が見える。安堵と寂しさ、色々な思いが込み上げてくる。田園風景がゆっくり移動してゆく。空を散歩しているようだ。ブエノス・アイレスの気温は17度、肌寒い。アルゼンチン最後の一夜を過ごし、エセイサ国際空港へ。順調な出国手続きだ。アリタリア航空で13時20分離陸。「ボン・ジョルノ」「グラツィエ」イタリア語が多くなる。
イタリア・ミラノまで12時間半のフライトだ。南半球から北半球へ、春から秋に向かって。日本の映画、音楽も選曲できる。「喰っちゃ寝」の肥育豚だ。エンジン音だけの静けさの中で、なぜか「バスストップ」の曲が頭をよぎる。「バスを〜降りたときに〜、あなた〜は帰る〜♪あなたの〜体の〜温もりを〜、忘れない〜ためにも〜♪」口ずさんでもみた。アルゼンチンの想いが、走馬灯のように巡ってきた。ちょっとセンチな気分になった。時差5時間、朝7時20分ミラノ到着。まだ夜明け前だ。ローマへの乗り継ぎまで3時間ある。白黒黄色、雑多な人種が横切る。どう見ても人種の格差を感じてしまう。あくまでも外見だけの話だが。東洋系は見栄えがしない、残念だが。
10時10分ローマへ。トランジットカウンターが見つからない。場所を聞いても要領を得ない。アリタリアのスチュワーデスを見つけ案内してもらう。なんと日本語を話す。「東京にも3回行ったことがある」とのこと。幸運だった。200ドルをユーロに両替する。1ユーロが1.6ドル、手数料18%、なんと高いこと。125ユーロを手にし、損した気分。おもちゃのような紙幣だ。そういえば、オーストラリアもニュージランドも同じような紙幣だった。2時間後2回目の乗換えを済ませ、午後1時半マドリードへ。
古都トレド メキシコ女性アレハンドロ
翌日は朝から小雨。9時15分集合にもかかわらず、起きたのは8時半だった。寝過ごしである。朝食もとらずに、道を聞きながら集合場所に駆け出す。雨宿りしたところで傘を買う。何とか間に合う。バスに乗り込み、トレドへ。マドリードから南南西65キロ、バスで2時間である。途中トイレタイムで入った土産物屋、日本語が氾濫している。トレドは首都がマドリードに移る前の首都だ。イスラム教徒によって500年もの永きに亘り支配されたアラブ民族の都である。日本で言えば京都または奈良といったところか。三方をホタ川に囲まれた小高い丘にあり、町自体が宮殿というべきか要塞というべきか、石造りの建物と狭い路地、そしてアラブの香り。町並みがもはや博物館だ。世界遺産でもある。「ピレネー山脈を越えるとそこはアフリカ」といわれるが、ヨーロッパとは異質なアラブの世界である。金細工とドン・キホーテの町だ。サンチョ・パンサを従えて「見果てぬ夢」の旅に出たのもここだったのかもしれない。きょろきょろしているうちにメキシコの女性と二人で迷子になってしまった。この女性、アレハンドラといい、メキシコからの一人旅である。デザインの勉強をしているとのことで、重そうな日本製の一眼レフで写真を取り捲っていた。スペイン語はもちろん、英語もぺらぺらで強い味方を得たようでもあった。熊本の八代に友人がいるというイギリス女性と3人で昼食を共にする。レストランを出るとそこに「世界人類が平和でありますように」という木柱が立っている。日本では時々見かけるが、まさかスペイン、それもトレドでお目にかかるとは思わなかった。
帰りのバスでは、ひたすら眠る。到着と同時に土砂降りの雨。行き当たりのレストランへ。日本人らしき一人ものが食事をしている。「こんばんは」と挨拶するが返事がない。違ったようだ。ハモン・セラード(生ハム)とペスカード・レングアを注文する。ペスカード・レングア、そのまま訳すと魚の舌。舌平目と推測して注文する。案の定、舌平目。おいしかった。ウェイター、なかなか感じがいい。黄色のリキュールをサービスしてくれる。仕事帰りか、サラリーマン風の賑やかなラテン系6人組が隣へどやどやとやってくる。スペイン人は概して小柄である。友人教師のヘラルド博士を思い出した。ウェイターの写真を撮り、小雨の石畳を駆け足でホテルに戻った。
マドリード王宮 コロンブスとアルゼンチン国旗
午前中はそのマドリード王宮の見学だ。東洋系女性の2人連れ。「日本人か」と聞くとなんと「マレーシア人」とのこと。マレーシアの女性も頑張っている。昨日一緒だったイタリア夫婦とまた一緒になる。アメリカ在住の韓国老紳士と出会う。日本語を流暢に喋る。「ヨーロッパと違って、アメリカやオーストラリアには文化がない」と言っていた。確かにその豪華さに驚く。絵画、展示品は絢爛豪華だ。ブルボン王家の流れを汲むものであろう。ストラディバリウスが何台もある。その道の人が見れば、よだれが出るであろう。外ではアコーディオン、サックス、バイオリンとそれぞれに演奏している。パントマイムもやっている。芸術の都だ。
かの有名なプラド美術館に行く。ベラスケス、リベラ、ムリーリョ、ゴヤの絵、絵、絵である。絵心のない私にはどれも同じに見える。とにかく疲れた。足が棒になった。表に出るとまた銅像のゴヤさんが待ち受けていた。
午後は市内ツアー。またもイタリア夫婦と一緒になる。最早ガイドの案内は子守唄。公園も多く、町はきれいだ。歴史と豊かさを感じる。やはりアルゼンチンとは重みが違う。アルゼンチンの本家だ。コロン公園。とてつもなく高いコロンブス像ととてつもなく大きなスペイン国旗がはためいている。アメリカ大陸侵略の記念碑だ。それを知ってか、知らずか、子供たちがスケボーを乗り回し、やたらうるさい。赤茶色のアラブの遺跡もある。職住混在型の町でもある。プエンテ・デ・ソル(太陽の門)で降ろされる。どこだか一向に分からない。銀座といった感じだ。土曜日、すごい人である。涙目の花嫁姿の女性がパントマイムをやっている。コインを入れると一転笑顔で花びらを投げかける。1ユーロを渡し写真を撮る。反対側の路地に1人の老婆、これにも1ユーロ。どこへ行っても東洋系は多い。暫しぶらついて、タクシーで帰る。
その夜、フラメンコを見に行く。またも日本の団体客が来る。フラメンコグループの一団のようだ。フラメンコはアラブの音楽だ。哀愁のギターの響き、憂いの表情。イスラムの心のたぎりを唄い、躍っているようだ。情熱と哀愁、タンゴに一脈通じるものを感じた。11時、店を出る。人通りはまだ多い。雑踏を歩きながら、日本の青年が1人静かにフラメンコを見入っている姿が脳裏をよぎった。