ビジャマリア情報W
2004.3.1
Villa Maria, Cordoba, Argentina
須郷 隆雄
アルゼンチンは今経済危機の中にありますが、今回はアルゼンチンの日本との関係及びその経済情勢について報告します。
ノーベル経済学者であるシモン・クズネッツ博士の言葉によると「世界には4種類の国がある。先進国と後進国と日本とアルゼンチンだ。」ということです。アルゼンチンのエコノミストたちにしばしば引用される警句です。
日本が資源小国でありながら資本主義的工業化に成功し、第二次世界大戦後世界随一の高度成長を遂げたのに対し、資源豊かなアルゼンチンは19世紀末から第一次大戦にかけて世界最高の1人当たりの経済成長率を実現した後、新興工業国家として成功せず、他の国々と比べ相対的に衰退していったからです。
あまり知られていないことですが、地球の正反対にあるアルゼンチンと日本は、歴史的に「先進国アルゼンチンと後進国日本」として深いかかわりがあり、アルゼンチンが日本への援助国であった歴史があります。
1900年に於ける両国の1人当たりの実質GDPはアルゼンチンが2756ドル、日本は1135ドルでした。当時、日露戦争の際にアルゼンチンは日本への軍艦の売却を行い、関東大震災の時には日本へ支援物資を送ったそうです。また、第二次大戦後の食糧難にあえぐ日本に真っ先に支援の手を差し伸べたのは、ミュージカルのエピータで有名なエバ・ペロンの財団であり、戦前から数多くの日本人移住者を受け入れたのもアルゼンチンでした。
しかしながら、この関係は1967年に逆転し、2002年の1人当たりのGDPを1900年当時と比較すれば、アルゼンチンはわずか1.013倍、日本は27.57倍となりました。
ところで、アルゼンチンのみならず国際社会にも深刻な影響を及ぼしている現在のアルゼンチンの経済危機はどのようなものでしょうか。
アルゼンチン政府は、90年から現地通貨であるペソを1米ドル=1ペソに固定し、ハイパーインフレから脱却に成功しました。また、国営企業の欧米への売却による民営化、貿易の自由化、関税率の引き下げ、外貨規制の全廃など一連のドラスティックな構造改革を行い、強力な自由解放経済政策・構造調整政策を遂行しました。この結果、活発な外国資本の流入により、95年まで平均5%を超える経済成長を達成しました。しかしその一方で放漫な財政支出を続け、財政支出の穴埋めに国債を乱発し対外債務は拡大しました。インフレがおさまった後も固定相場を維持し、国民は外国製品を安く買い入れ、つかの間の先進国気分を享受しましたが、輸出競争力の低下により国内産業は衰退しました。隣国ブラジルの通貨切り下げにより不況が一層懸念され始め、98年後半からもっとも深刻な経済危機に突入しました。
景気の後退による失業率の上昇と貧困の拡大は、多くに死者が出るほどの暴動までに発展し、2001年12月、経済危機と相まって、当時の大統領を辞任にまで追い込んだ重大な政治危機を引き起こしました。02年1月には公的対外債務の一時支払停止を宣言すると共に、ペソの引き下げを実施しました。経済の更なる混乱により、02年には10.9%のマイナス成長となり、貧困人口は都市人口の57%に至り、貧富の差は過去30年間の統計で最大になりました。このため、貧しい北部の州では栄養失調で餓死する子供が出たことや、かつて南米のパリと言われたブエノスアイレスでも夕方になるとごみを漁る人達で溢れることが世界で報道されたところです。
アルゼンチンの現在の状況は、かつてDACリストからの卒業予定候補国に挙げられたことが夢のようであり、二国間援助だけでなく国際社会からも支援を必要としている状況です。中南米地域の大国の一つであるアルゼンチンで起きた経済危機はアルゼンチン一国に留まらず、国際的な金融危機に波及する危険性もあり、すでに近隣国であるボリビア、パラグアイ、ウルグアイでは経済不況に陥っています。
戦後貧困のどん底に喘いでいた日本に地球の裏側から手を差し伸べてくれた友人へ55年ぶりに恩返しをする絶好の機会が今なのかもしれません。