ラス・リラス便り
第 13 号
平成17月9月30日
アルゼンチン国コルドバ州ビジャマリア市
須郷 隆雄
ラス・リラスは相変わらず混んでいる。
東洋系1/4ほどのウェイトレス、注文をとりに来る。白人より目が細いので、何となく東洋系の血が入っているのかなと気が付く。それ以外は全く分からない。春になり、薄着になったせいか女性が綺麗だ。やけにセクシー。以前写真を撮ってあげた美人ウェイトレス、ちょっと太ったかな。お尻が重そうだ。
女性が8割方、何を生きがいに、何を目的に集まってくるのか分からない。
犬が足元で寝ている。アルゼンチンの犬はほんとに良く寝る。人間と犬、どちらが幸せなのか。時々犬になりたいと思うことがある。幸せとはいったいなんだろうと考えてしまう。
アルゼンチンには牛が5千万頭いる。人口よりはるかに多い数字だ。牛は人間に食べられるために生きている。彼らは人間に殺され、食べられることを知っているのだろうか。多分、それは知らないであろう。知っていたら生きるのをやめる筈だ。いや、自分の一生はやがて人間に食べられるということを知っていて、一日一日を優雅にのんびりと草を食んでいるのかもしれない。「永劫回帰」を会得しているのだろうか。
珍しくミニスカートの女性が入ってくる。アルゼンチンでは、女性も9割以上がパンタロンだ。老人と子供以外は、まずスカートは見かけない。目の化粧がかなり厚い。新聞を見ていても、ついその女性の足に目が行ってします。困った中年親爺だ。
「人生の成功とは何か」。よく言われる言葉である。永遠の命題でもある。その答えを田坂広志氏の「人生の成功とは何か」が示しているように思う。
我々は人生の成功を勝者となることだと考えている。人生を競争と考え、それに勝利することと考える。それは金と地位と名声を得ることである。しかし勝者になるのは一握りの人間だけである。必ず誰かが敗者になるのである。それは「果てしない競争」「精神の荒廃」「人間関係の疎外」を生み、勝者を目指しても本当の「成功の喜び」を味わうことが出来ないことに気が付くというのである。
競争での「勝敗」に左右されない思想。それは「達成の思想」である。目標といっても好いのかもしれない。いわゆる山の頂を目指して登る「山登り」なのだ。「喜びの高めあい」「切磋琢磨」「自分らしさ」の追及である。「コンペティション(競争)からコラボレーション(協働」」へ向かうことである。「自分との戦い」である。しかし人生において、夢を実現できるとは限らない。目標を達成できるとは限らないという事実だ。なぜなら、人生には「努力」「才能」「境遇」に加えて「「運」というものがあるという現実である。しかし人生は続くのである。
イチロー ウーピー・ゴールドバーグ
この人生を一生懸命に生きるにはどうするのか。競争で勝者になるためでも、目標を達成するためでもない。人間を磨き、成長していくためだという。苦労や困難、失敗や敗北、挫折や喪失を成長の「糧」とすることだという。
イチロー選手は「あのピッチャーは苦手ですか」と聞かれ、「いえ、そうではありません。彼は自分の可能性を引き出してくれる素晴らしいピッチャーです。だから自分も力を磨いて、彼の可能性を引き出せるバッターになりたいです」と。このコメントは我々に困難ということの本当の意味を教えてくれる。「夢」を描き、「困難」に挑戦するとき、我々に更に大きな成長を与えてくれる。
「見果てぬ夢」、「The Impossible Dream」。これは叶わぬ夢ではない。自分の中に眠る可能性を信じ、不可能と思える夢を抱き、困難へ挑戦し、その可能性を開花させたいという願い。だから「見果てぬ夢」なのだ。この言葉は、我々の魂に火をつける。あのドン・キホーテのように。しかし、人生は何時終わるか分からない。そのためには「一日を生き切る」ことだという。
女優ウーピー・ゴールドバーグに俳優修行の若者たちが問いかけます。「我々は将来、役者になることを夢見て、毎日厳しい練習を積んでいます。この努力は、何時か報われるのでしょうか」。この質問に、ゴールドバーグは答えます。「今あなた方は何時か役者になりたいとの夢を持ち、素晴らしい仲間とともに、励ましあい、助け合いながら、毎日その夢を求め、目を輝かせて生きているのでしょう」「そうであるなら、あなた方の努力は既に報われているのではないですか」と。この言葉は、何故我々が「競争」に身を置き、「目標」を掲げるのか。何故我々が「夢」や「志」を抱くのか。その本当の意味を教えてくれている。
今この一瞬を生き切ること。今この一瞬を成長すること。今この一瞬を輝いて存在すること。困難に挑戦して生きることの本当の意味は、そのことにあるというのである。
「人生の成功とは何か」お後がよろしいようで・・・。
しかし、頭で理解してもなかなかその域に達し得ない。未熟者である。
「一日、らしく、どっこい」学生時代に教授が言った言葉だ。結局そういうことか。今は亡き、その教授の顔を思い浮かべながら表に出た。