ラス・リラス便り

第 5 号

平成17510

アルゼンチン国コルドバ州ビジャマリア市

須郷 隆雄

 

 今日は朝から雨。起きたのも10時過ぎだった。昨日、コルドバでゴルフをして遅く帰ったこともあるが、日曜日と雨が重なったためでもある。ディレクTVのNHKを見たり、雑誌を読んだり、1日ごろごろしていた。

 雑誌に面白いことが書いてあった。「日本から武士道が失われると天才は生まれない」と。インドに天才が多く生まれるという。しかも南インドに。その辺りはヒンズー教のメッカだそうだ。天才が生まれる所、土壌にはいくつかの条件がありそうだ。決して人口に比例して出るわけではない。1つ目は美の存在だという。2つ目は何かにひざまずく心。3つ目は精神性だという。いわゆる金だとか、物だとかではなく、役に立たないものを尊ぶ心だという。「武士は食わねど高楊枝」、武士は権力者だが金は無い。中世のヨーロッパ貴族は教養と権力と金を持って始めて尊敬された。しかし、武士は権力と教養はあっても金は町人より無い。金が無くても尊敬された。日本人は元来金銭というものを低く見て、精神性を尊ぶところがあった。天才を生む素地が十分にあったと思う。しかし、今の日本は、金と物は豊かになったが、逆に精神性、心は貧しくなったようにも思える。秀才は生めても、天才は生まれない環境なのかもしれない。後進国、途上国の子供たちを見ると、金と物は貧しいが心はとても豊かなような気がする。その人は、今こそ日本人は新渡戸稲造の「武士道」、内村鑑三の「余は如何にして基督信者となりしか」、鈴木大拙の「日本的霊性」を読むべきだと説いている。武士道精神、高い道徳観、自然への愛着そして国や郷土を思う気持ちがあれば、天才は生まれ続けるであろう。そんな気がしてきた。

 日本の乾杯を、アルゼンチンではSalud(健康)とかPaz y Dinero(平和と金)と言う。白系は日本と違って、金を卑しいものと言う考えは無い。キリスト教圏には、10分の1献金という思想がある。寄付の文化だ。仏教圏には、喜捨という思想がある。謙遜の意味を込めて、どうぞお好きなように使ってくださいという意思表示である。我々から見ると西洋文化は極めて合理的、打算的にも見えるが、やはりカルチャーの違いであろう。

 夕方6時ごろ出かけようと、台所を見るとやかんが真っ黒に焦げている。ガスの消し忘れだ。これで5回目。やれやれ、痴呆の始まりか。ドアの外はアルゼンチン、外国だ。相変わらず雨が降っている。何時ものラス・リラスへ。新聞を取りテーブルにつく。ほぼ満席、家族連れが多い。何時ものコルタードを注文。オレンジジュースとパンのほかにレシートまで付いてくる。何時もコルタードしか注文しない客、混んでいるので早く帰って欲しいという意思表示なのか。隣の席の家族から雑誌を渡される。見るとヘンテ、女性週刊誌だ。暫く椅子に置いておくと、その隣の席から見せてと言う。ちょっと惜しい気がしたが渡す。

 向かいの席の4歳ぐらいの女の子が、私を見ている。手を振ると微笑んで振り返す。決してはにかんだりはしない。この国の人は子供に限らず、挨拶上手だ。 

 雑誌が帰ってくる。美人ぞろいだ。日本人とどうしてこうも体形が違うのか。日本人はやはり着物向きだ。洋服はやめよう。現代風改良版着物を開発しよう。

     

     国会議事堂                コルドバ大聖堂

 新聞を読み始める。非婚者が急増していると書いてある。しかしアルゼンチンの人口は、私が来た当初は3,600万人、今は3,800万人。年率2.7%増加している勘定になる。確かに腹を突き出した妊婦と子供は良く見かける。若年層と高齢出産が多いようだ。若年結婚は離婚に結びつく割合が多い。国の母子家庭に対する支援も手厚いようだ。高学歴化に伴い、結婚の高齢化、非婚化は日本と同様だ。カトリックの国でありながら、離婚率は20%に上るという。この国では、ベッドをともにしなくなったら離婚だそうだ。日本のように世間体や子供のことは気にしない国民だ。愛情が無くなればさっさと別れる。そして新しいノビアのもとへ。結婚していなくても1人でいる人は少ない。2人で生活しているのが当然の国なのだ。日本でも離婚が増えたとは言うものの、離婚率は3%に達するかどうかと言うところだ。家庭内別居は考えられないし、「亭主元気で留守がいい」は流行語にもなりえない国だ。結婚観の違いと思うが、日本の場合、巣作り結婚と言うべきなのか、結婚難民が増えそうな気がする。定年期を控えた我々にとって他人事ではない。男女の仲は難しそうだ。

 8時、店を出る。相変わらずの小雨だ。襟を立て、足早に帰る。
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